怠惰と汗と現実と

キムラヤスヒロ(鳩)公式ブログ

「あ、結婚しよ」というエゴイズム

少し前に、Twitterのモーメントに「あ、結婚しよ」と思った瞬間、という記事が出ていた。
今でも検索をすればすぐに出てくるだろう。

一人で食事をしている時に相手の顔が浮かんだら「あ、結婚しよ」と思う、というような内容だったと思うが、
その内容自体はどうでもいい。
オレは、「あ、結婚しよ」というその発想がどうしようもなく気持ち悪かった。

結婚というのは、少なくともこの国の価値観においては双方がそれを望んで初めて可能になるものだが、
「あ、結婚しよ」という発言は、「自分さえ結婚したいと思えば簡単に結婚できる」という考えがなければ出てこない。
この元記事を書いていたのは女だったが、オレはそこにオレの思う女の嫌な部分が端的に表れているのを感じた。

この「あ、結婚しよ」という発言の前に、相手からプロポーズされていたり、既に婚約をしているという可能性もある。
だが、それでも、正式に結婚するには相手に再度確認することが必要なので、
プロポーズされているからといって「あ、結婚しよ」と思って直ちに結婚できるわけではない。
もしオレが女に、「あ、結婚しよ」と思った、などと報告されたら、
たとえそれまでその女と結婚したいと思っていたとしてもオレは一瞬で逃げるだろう。

自分の考え一つで何かが可能になると考えている人間は不気味だ。
そして、そういう人間はたいてい、発言の隅々にそうした考えがにじみ出ている。
恋愛に限らず、そういう人間と付き合うことは言うまでもなく無駄な消耗である。

【今日のまとめ】
炎上狙いの記事だったのかもしれないが。


というわけで。
  1. 2017/07/22(土) 18:56:27|
  2. 日記
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オレが運動神経が悪い

Twitterのタイムラインを眺めていると、バイクに関係するツイートやリツイートが流れてくることがある。
各地のツーリングやサーキットを使っての高速走行の様子が、写真や動画によって記録されている。
それらを楽しそうだと感じることはあるが、オレはバイクに乗りたいと思ったことはない。
オレは運動神経が悪いので、バイクに乗れば確実にすぐに死ぬからだ。

オレが運動神経が悪いというのは、並の話ではない。

オレは中学生の頃、体育の授業を一度も休まなかったのに成績は5段階で2だった。
こういうのはズル休みでもしない限りたいていは3くらいはもらえるものだが、
オレの運動能力はその域にすら達していなかったのだ。
真剣に授業に参加しているのに、ふざけていると思われて体育の先生に怒られたこともあった。
おそらくオレの様子は外から見ると本当にふざけているように見えるのだろうから、先生を責める気にはなれない。
オレは脈が普段から速く、持久力もなかった。
高校の体育の1500メートル走では、難なく走りきったクラスメイト達から数分遅れでゴールし、
そのまま倒れかけて本気で先生に心配されたこともあった。

大学生以降になると運動を強制させられることはないので、特に違和感なく生きてこられたが
(勘違いしないでほしいが、オレは運動は苦手だが嫌いではない)、
それで何かが解決したわけではないし、上述の通りバイクなんて恐ろしくて乗れない。

今になって考えると、おそらく運動機能に関してはオレは何らかの病的な要素があるのではないかと思う。
もし今後オレが子孫を残すようなことがあれば、それが遺伝しないことを祈りたい。

【今日のまとめ】
跳び箱だけは大丈夫だった。


というわけで。
  1. 2017/07/21(金) 23:28:26|
  2. 日記
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読点の使い方

オレがこのブログを書く上で最も気を遣い、
そしていまだに自分を納得させるだけの結論が出ていないのが、読点の使い方である。

読点の使い方に明確なルールはない。
常識的な使い方や上手い使い方というのはあるし、使いすぎれば読みにくくなるのが普通ではあるが、
基本的には文節の切れ目であれば読点はどこに打ってもいい。
また、極端な話、読点をまったく打たないからといって、それは間違った日本語ではない。

読点をまったく打たなければ読みにくい文章になるのは目に見えている。
オレはロースクールの授業に伴う勉強の過程で大審院(最高裁の前身だ)の判決文をいくつも読んだが、
それらの判決文には句読点は一切ない。
当時の判決文は漢文調でなのでそれが正式だが、どう考えても読みにくいし、当時の人もさぞ読みにくかっただろう。

だが、読点を打ちすぎると、また同様に読みにくい文章になる。
たとえば、このように、文節の、区切れごとに、いちいち、読点を、入れて、いけば、読む側は、さぞ、苦痛だろう。
しかし、上のような文章も間違いではないので、
結局、読点の打ち方は書き手のセンスや技量に委ねられてしまう。

文章を書く技量が高ければ、読点をほとんど打たずとも読みやすい文章を書くことがある程度可能だ
(もっとも、大審院の判決文はプロが書いていても読みにくいので、限界はある)。
だがオレにはそこまでの技量がないので、読点を使う必要がある。
そうなると、使い方に明確なルールのない読点を自己判断で使うのだから、
読みやすい位置に適切に読点を使うセンスが要求されることになる。
オレにはおそらくそのセンスもあまりないから、読む人に迷惑をかけているかもしれない。

オレは数年前からブログを毎日書き続けることで以前よりもだいぶ書きたいことを書けるようになってきたが、
この読点の使い方に関しては、いまだに悩ましいのである。

【今日のまとめ】
英語はスペースがあるので良い。


というわけで。
  1. 2017/07/20(木) 16:27:10|
  2. 日記
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大人たちが子供のままなので、教育ができない

先日、小学校の教師がクラスの生徒に「飛び降りろ」とか、
「明日からこのクラスは34人ではなく33人だ」と言った、というニュースを目にした。
それ自体はよくあるニュースだが、オレはそれに対する周囲の人間の反応に驚いた。

「教師がそこまで言ったからには生徒の側にも何かしらの理由があったのだろうから、それを報道すべきだ」というのである。
また、実際に、「Facebookに同級生の保護者が行った投稿」であるとして、
教師による上記の発言の対象となった生徒がどんな行動をしたかの経緯が記された画像がSNS上に出回った。
そのFacebookの投稿が本当になされたものか、
そうだとして内容が真実であるかはわからないが、問題はそこではない。

被害者が刑事未成年である小学生であり、かつ加害者が教師という立場であるにもかかわらず、
「落ち度があるのだから被害を受けても仕方がない」という図式が成り立っているかのような空気が醸し出されていることが、何よりも異様なのである。
そして、その落ち度の証拠とでもいうべきものを、(内容が真実であればだが)、
被害者である生徒の属するコミュニティの大人がインターネットで世界中に提供しているということもまた異様だ。

刑事未成年であっても、非道徳的な行いをすれば叱責されるのは当然のことだ。
だが、それは、大人による大人らしい振る舞いをもっての叱責によらなければならないし、
また、地域のコミュニティ内で処理されるべきものだ。
それによって、叱責された生徒は何が悪かったのかを理解して反省することができ、コミュニティの中で更生できる。

これは大人という立場があるからこそできるもので、子供が子供を叱責することはできない。
そして、同じコミュニティにいる大人だけがそのコミュニティにいる子供を叱責でき、見知らぬ大人にはそれができない。

それが教育だ。

だが、「飛び降りろ」という発言は、大人らしい振る舞いではない。
たとえ先に生徒が他の生徒に「飛び降りろ」という暴言を吐いたのだとしても、
教師がそれをもって暴言を吐いた生徒に同じ言葉を吐くのは、同様に暴言でしかなく、それは叱責ではない。
子供が子供に仕返しするのと同レベルで、それもまるでインターネット上の誹謗中傷のような内容の発言をするのは、
教師が生徒より上の立場であることを考えると、もはや対等ですらない。

教師は、子供の発想からは生まれない大人の言葉で、なぜそうした発言を他人にしてはいけないのかを説明する必要があり、
そうしなければ子供は成長できず反省もできない。
教師が子供の仕返しと同じことしかできないのなら、子供が自治的に仕返しをすれば済むのであって、
そこに教師が存在する意味はない。

また、Facebookに「真相」を書いた大人も駄目だ。
この人はこんなに悪いことをしたのだ、だから悪いことをされても仕方ないのだ。
それは大人の理屈である(もっとも、オレはそれにも疑問があるが)。
幼さゆえそうした理屈がわからないだけの子供には、地域での教育を施せば、
その可塑性ゆえ、充分な反省や更生が期待できる。
むしろ、可塑性があるからこそ、世界中にその「悪いこと」の内容を晒すようなことをすれば、その子供は一生立ち直れなくなるかもしれない。

教師が大人らしい叱責をできず、またコミュニティの大人がコミュニティ内で更生を促せなかったのは、教育の敗北だ。

これは大人たちが精神的に子供のままだからだ。
大人たちが子供のままなので、子供が何か悪いことをしても、
それを教育として処理できず、単に「悪いことをした人間がいた場合にどうするか」と一般化して扱ってしまうのである。
「相手を子供扱いせず一人の人間として見ている」といえば聞こえはいいが、
これは単純に、そう見ることしかできず、まともに教育ができないというだけの話だ。

大人たちがこうなったのは、結局、いまの大人たちのさらに親の世代の失敗である。

教育がまともに機能していないこうした現状は、現在叫ばれている「教員不足」をはっきりと証明している。
どうすればそれを打開できるかはわからないし、打開することはもうできないかもしれない。
ひとつの考えはあるのだが、それはまた後日書くことにしたい。

【今日のまとめ】
この国で被害者の人権を語るには100年早そうだ。


というわけで。
  1. 2017/07/19(水) 22:10:25|
  2. 日記
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オレは雷が怖くない

きょう、東京で大粒の雹が降ったらしい。
インターネットに投稿された動画では、池袋や大塚辺りの市街地で、
そのままウイスキーのオンザロックに使えそうなサイズの無数の雹がバチバチと轟音を立てて降り注ぐ様子が記録されていた。
雹の降らなかったエリアでも雷鳴がとどろき、いわゆるゲリラ豪雨が各地を襲った。

このレベルの雹は誰しもが人生でほとんど経験しないレベルのものだろうから、オレも動画を見ただけで恐ろしかったが、
こと雷に関しては、オレは怖いと感じたことがない。
SNSや周囲の反応を見ていると、どうやら雷を怖いと感じる人は多いようなのだが、
オレには、それがまるで冗談のように思えてしまう。
それくらい、オレは雷が怖くない。
オレはかなり臆病な性格だが、こと雷に関しては別物である。

それは、オレの育った環境に関係していると思われる。

オレの家の近くに、「雷電神社」という神社がある。
総本社は群馬県の板倉だが、関東には雷電神社が多く、オレの先祖が住んでいた谷中村にも雷電神社はあったようだ。

その名の通り、雷電神社は雷に関係する神々を祀り、雷除けの神社として知られている。
周囲を山が囲む関東平野には昔から雷が多かったことから、こうした神社ができたそうだ。
祖父をはじめとするオレの周囲の古い人間は、神社を「雷電さま」と呼んで敬っていた。
雷は「神鳴り」と呼ぶこともあるくらいだし、
それは恐れるものではなく信仰の対象であって、こと雷電神社を持つ地域ではその傾向が強かったのかもしれない。
その影響で、オレはきっと、幼少期から雷を恐怖の対象として捉えないまま成長したのだろう。

人が何を恐怖に感じるかは生まれ育った環境の影響が大きい。
オレはゴキブリが苦手で、多くの人も同じだろうが、
北海道の北部の人はゴキブリを見たことがなく、上京してきてゴキブリを見ても恐怖しないという話も聞く
(もっとも、現在ではゴキブリも北上していて、それは過去の話であるともいうが)。
それは、彼らにとって「ゴキブリは気持ち悪い」という価値観が存在しないからだ。
それと同じで、オレにとっては、「雷は怖い」という価値観が存在しないのである。

【今日のまとめ】
ブレーカーが落ちるのは怖い。


というわけで。
  1. 2017/07/18(火) 21:05:56|
  2. 日記
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