怠惰と汗と現実と

キムラヤスヒロ(鳩)公式ブログ

レントゲンの辱め

先日のエントリに書いた交通事故の件で、火曜、念のため病院の整形外科で診察を受けた。
医師に事故状況を話した結果、腰のレントゲンを撮ることになり、レントゲン室まで向かった。

入り口にて、若い女性のレントゲン技師に、本人確認のため名前と生年月日を訊かれる。
荷物を棚に置き、レントゲン室に入った。
こうした経験は初めてではないし、この病院でレントゲンを撮られるのも初めてではない。

レントゲン台に仰向けになり、撮られるのを待つ。
すると、「ファスナーが写ってしまうので、膝までズボンを下ろしてください」とそのレントゲン技師は言った。

向こうは慣れているので何ということもないのだろうが、若い女性の前でズボンを下ろすのは何となく勇気がいる。
一応タオルを掛けてくれたが、このタオルがあまりにも頼りない。
頼りないというか、完全に隠れずに少し下着が見えている。
仰向けで撮影した後に横向きでも撮ったが、その際にはほぼ完全に見えていた。
こうなることをあらかじめ知っていれば、とも思ったが、ファスナーのないズボンなどオレは持っていない。
そんなもの、寝巻き用のスウェットくらいのものだろうから、結局回避できないものだったのだ。

レントゲン技師は依然としてまったく気にする様子はない。
毎日何十人もの人に同じことをしているのだから、気になりようがないのだろう。
ここまで気にする様子がないと、何だか、自分が恥ずかしがること自体がセクハラ的な行為になってしまう気さえしてきて、
無心になれないことが罪であるかのように感じられてくる。

最後まで、「早く終わってくれ」という気持ちが消えないまま撮影が終わり、オレはズボンを履いて待合室へと戻った。

結局、診察の結果、骨に異常はなかった。
オレのズボン脱ぎは、まさしく無駄な消耗に終わってしまったのだった。

【今日のまとめ】
せめて背中だったら。


というわけで。
  1. 2018/07/13(金) 22:30:49|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

オレは、自分がこの世で一番文章を書くのが下手なのではないかと感じる

他人が書いた文章に触れるたび、オレは、自分がこの世で一番文章を書くのが下手なのではないかと感じる。
それがプロの書いた文章であればオレよりも上手くて当然なのだが、
最近は、プロに限らず、その辺の一般人が書いたSNSやブログの文章であっても相当に上手い。
中学生や高校生を名乗るアカウントの文章であっても上手い。

ほとんどの人間が、自分の感じたことや考えたことを、わかりやすくはっきりと書いている。
レトリックや表現の方法が稚拙だと感じる人もいるが、そういう人でも、何を言いたいかはたいていの場合わかる。
その、「自分の感じたことや考えたことを、わかりやすくはっきりと書く」ということは、オレの苦手としていることだ。

オレは6年弱このブログを毎日書いていて、メールマガジンは既に6年半以上毎月書いているが、
ブログやメールマガジンに掲載する文章を書き終えるたび、
「オレが書きたいことはこういうことだったっけな、どうもオレの言いたかったことと実際に書き上がった文章が違うな」と感じる。
書き続けてきたうちに、以前よりはその違和感が小さくなっていることは実感しているが、
いまだ、それを完全に克服したとは思えない。
周囲の人たちは、どうしてこうも自然に思っていることを書けるのだろうと感じる。

もっとも、それはオレからそう見えているだけで、オレが覚える上記のような思いは、ある程度共通のものなのかもしれない。
オレから見て、思っていることをほとんど完全に吐き出せているような人も、実際にはオレと同じように思っている可能性はある。
だが、日常生活において、「自分の思った通りの文章を書けているか」という話題で他人と話すことはめったにない。
「めったに」というより、少なくともオレはそのような話をしたことはない。

このように書いていて思ったが、
もし、オレが自分で「自分の感じたことや考えたことを、わかりやすくはっきりと書けた」と確信することがあれば、
それはオレがブログやメールマガジンを書くことをやめるときかもしれない。
言い換えれば、オレは、少しでも「自分の感じたことや考えたことを、わかりやすくはっきりと書ける」状態に近づくために、ブログやメールマガジンを書いているのかもしれないということだ。

それはオレが生きている間に達成できることなのかどうかわからないが、
もし達成できなければ、オレは死ぬまでブログやメールマガジンを書き続けることになるだろうと思う。

【今日のまとめ】
あくまで現時点での考えだが。


というわけで。
  1. 2018/07/11(水) 16:27:50|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

オレたちには、他人の決定権を奪う権利などない

神奈川の病院で数十人の患者が不審死した事件で、元看護師が逮捕されたというニュースを目にした。
まだ事実関係が確定したわけではないので、オレはその件については直接何も言わないし言えない。

その件について、別の看護師を名乗る人物が、Twitter上で連続したツイートを行い、それがまとめとしてトレンドになっていた。
その人物は、逮捕された看護師に同情する旨ツイートしていた。

その人物によれば、延命治療を受けている人物はたいてい意識がなかったり、衰弱して苦しんでおり、
家族が年金を受け取るためであるとか、相続の揉め事を防ぐために無理やり生かされているのだという。
だから、死なせてあげる方が彼らにとってはいい、とツイートされていた。

だが、意識がなかったり、衰弱しきっている人が「死にたい」と思っていると、どうして分かるのだろうか。

病院に勤めているわけでもないオレより、看護師の方が患者の気持ちはよほど理解しているだろう。
しかし、意識がなかったり、意思疎通が満足にできない人が、「死にたい」と思っているかどうかは、
超能力者でもないかぎりわかりようがない。

もちろん、延命治療を受けている人々の中には、早く死なせてほしいと思っている人も多いだろう。
だが、その中には、たとえ苦しむそぶりを見せていたり、植物状態のようになっていても、
自分の家族のために、苦しんででも経済的に得をさせてやりたいとか、相続で迷惑がかからないようにしたいと考えている人も少なくないはずだ。

むろん、その真相はわからない。
だが、それはあくまで「わからない」という状態があるにすぎず、答えを一つに決められるものではない。
一つに決められないということは、少なくとも、彼らが「死にたい」と考えている、と決めつけることもできない。

他人の気持ちを考えることは、人間が社会的動物である以上欠かせないことだ。
だが、それはあくまで考えることだけが許されているのであって、
推測した他人の感情に基づいて他人の決定権を奪うことは許されない。

もし、「延命治療を受けている人たちはきっと死にたいと思っているだろう」という思い込みで患者の命を奪うことが正当化されるなら、
「障害者はいないほうがいい」という理由で多くの人が殺傷された一昨年の相模原の障害者施設での事件や、
「救済」の名の下に「ポア」が行われたあるカルト教団の犯行まで、正当化されることになってしまう。

繰り返すが、オレたちには、他人の決定権を奪う権利などない。
それは、たとえ相手が意思疎通のできない人間であっても同じことだ。
そのような権利があると思い込むことは、無駄な消耗の極みである。

【今日のまとめ】
可能な限り、意思疎通ができるうちに「どうしてほしいか」を形に残すべきだ。


というわけで。
  1. 2018/07/09(月) 18:46:56|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

オレは買った本をちゃんと読まないことが多い

オレはそれなりに本を買うほうだ。

読書家というレベルではまったくないし、読む人からすれば「そんなの買っているうちに入らない」というレベルだろうが、日に日に本の量は増えていく。
オレは図書館があまり好きではないので、基本的に、読みたいと思った本はすべて購入することになる。
最近は電子書籍も普及してきたし、オレは電子書籍に好意的なのでそちらで買うことが増えたが、
専門書や古い本などは印刷書籍としてしか流通していないことも多く、
オレはあまり本を手放すこともしないので、
結局、物理的な本の量は増えていくばかりだ。

さて、冒頭にオレは「買うほうだ」と書いた。
「読むほうだ」ではない。
要するに、オレは買った本をちゃんと読まないことが多いということだ。

簡単に目は通すが、最後までは読まなかったり、必要な箇所だけ読んだりする。
その後は、本棚にしまったり、積んでおいたりする
(まったく読まないわけではないから、いわゆる「積ん読」ではないと思うが)。

きっと、「せっかく買ったのだから全部読まなければいけない」という義務感が苦手なのが大きい。

昔、よく、友人から本やCDを「面白いから読んで(聴いて)みろ」と言われて借りたことがあったが、
せっかく借りたのだから、と思いながら読んだり聴いたりすると、
義務感で接しているからか、あまり内容に入り込めず、途中で気持ちが折れてしまう。
ところが、しばらく後になって、何かしらの機会に再びその本やCDに接すると、夢中になったりする。

オレの場合、自分で買った本にも、そういうところがある。
買った時は期待はずれに感じて最後まで読めず、本棚に置いておいた本が、ふとした時に目に止まり、
あらためて読んでみたところ、ものすごく面白かったという経験が何度もあるのだ。
それは、時間の経過により、「せっかく買ったのだから」という義務感から解き放たれたまっさらな状態でその本に接することができているからこその結果だと思う。

そして、そうした経験は、その本を買って家に置いておいたからこそ起こる。
買ったその時は役に立たなかった本が、後になって役に立ったのだ。
今のところまだ役に立っていない本もたくさんあるが、そうした本も、今後役に立つかもしれない。

だから、オレは、買ったすべての本をちゃんと読むことは無駄な消耗だと思うが、
ちゃんと読まない本でも少し気になったら買うということは、無駄な消耗ではないと思う。

【今日のまとめ】
雑誌などは誰でもそうだと思うが。

というわけで。
  1. 2018/07/08(日) 16:47:06|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0

方言に憧れる

オレは方言に憧れている。

オレが住んでいる地域では、北関東訛りはあるが、あまり方言がない。
茨城弁といえば「ごじゃっぺ」という言葉があるが、オレはいまだにその意味を知らない
(たまに調べるのだが、すぐ忘れてしまう)。
むしろ、茨城県といってもほとんど栃木の県境に住んでいるので、栃木弁の方が馴染みが深いくらいだ。
U字工事という栃木弁の漫才コンビがいるが、彼らの話し方のほうが茨城弁よりもよほどオレにはわかりやすい。

そうした経緯もあり、オレは方言を話している人を見ると、羨ましく感じる。
(オレは、自分の持たないものを持っている人が常に羨ましいのだ)。
とりわけ、方言の中でも、特定の地域でしか通じない単語が羨ましい。
「車校」「離合」「カットバン」「押しピン」「放課」など、独特の存在感のある単語だ。
オレは、そういう単語を日常使うものとして持っていない。

以前、車で京都に行った際、路上で「この先離合困難」という看板を目にして興奮した。
明らかに、「離合」という単語が、「すれ違う」という意味で用いられている。
こういうものを見ると、自分が普段と違う場所に来たことを痛感する。

オレも、すれ違うことを「離合」と言ったり、絆創膏を「カットバン」と言ったり、
画鋲を「押しピン」と言ったりしてみたい。
だが、その地域の人間でないオレがそのように言っても、「にわか」扱いされるだけで、無駄な消耗になる。
結局は、憧れでしかないのである。

【今日のまとめ】
祖父母は傘を「コウモリ」と呼んでいた。

というわけで。
  1. 2018/07/07(土) 18:17:05|
  2. 日記
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
前のページ 次のページ

広告欄

ぜひクリックをお願いします

広告欄その2

ぜひこちらもクリックをお願いします

プロフィール

キムラヤスヒロ(鳩)

「主に、オレの望みと喜びで。」

DLミニアルバム「主に、オレの望みと喜びで。」6曲入り、600円(税込)~

インターネット土鳩に寄付する(1口10円、シングル「フリスク」付き)

当ブログやメールマガジン、その他活動を充実させるための投げ銭支援をお願いしています。 特典(一口から)として、シングル「フリスク」のmp3およびWAVファイルを差し上げます。 ※振込みでのご支援にも対応いたします。mail@kimurayasuhiro.comまでご連絡をお願いします。

メールマガジン「インターネット伝書鳩」

メルマガ購読・解除
キムラヤスヒロ(鳩)公式メールマガジン「インターネット伝書鳩」

読者購読規約
>> バックナンバー
powered by まぐまぐ!
 

インターネット土鳩のほしい物リスト

ご支援をお願いいたします

ほしくないと言えば嘘になる物リスト

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

インターネット土鳩にメールする

ご意見・ご質問などございましたらお気軽にメールください

名前:
メール:
件名:
本文: