いじめをしたことがない、または加担したことがない、
という人間が世の中にどれだけいるのだろうかと思う。
もちろん、自分がいじめをしたことがあったら、いじめをした人間を叩いてはいけないということはない。
それはそれとして、悪いことを悪いと言ってもいいのだろう
(悪いことを悪いと言っていいのは、
自分がその「悪いこと」の被害者や関係者である場合だとオレは思うが)。
だが、いまから十数年すれば、そうした「叩く側」の人間も、同じように叩かれるかもしれない。
そのリスクについて考えたうえでやっているのならオレは何も言わないが、
そうした人間が、はたしてどれほどいるだろうか。
自分がした行為はあんなにひどくない、と言いたい人もいるだろうが、
された行為がひどいか否かを決められるのは被害者だけだ。
客観的には「ちょっとした」行為であっても一生の傷を負う人もいる。
だからこそ、オレは、
「謝罪は被害者に対してだけすべきであるし、許す権利があるのは被害者だけだ」と繰り返し言っている
(「謝るのはエゴだ」と言う人もいるが、謝罪に対してどう判断し反応するか決めるのも被害者だ)。
「いじめ反対」「差別反対」という、あまりにも当たり前すぎることを念仏のように唱え、
それに満足することで問題の解決から遠ざかっていく。
それがオレの最も危惧することだ。
いま世間で話題になっている件でいえば、
このニュースを目にした人は、
「いじめをやめよう」ではなく「いじめを告白することをやめよう」と思うかもしれない。
そうなれば、いじめはなくなるどころか、より陰湿で証拠の残らないいじめが蔓延することになるだろう。
「いじめを告白すると、二十数年後にその告白がインターネットに晒されて、みんなから叩かれます。
だからいじめはやめましょう」
これが本当に、我々の望むものだろうか。
いまリアルタイムで自分の周囲で行われているいじめには目もくれず、
自分と面識のない人間が二十数年前に行ったいじめを批判することが、本当に正義だろうか。
それが無駄な消耗ではないか、もう一度考えたほうがいい。
【今日のまとめ】
少し長くなってしまった。というわけで。
- 2021/07/18(日) 21:43:58|
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