先日、村上龍のエッセイ「すべての男は消耗品である。」が完結した。
オレはふだん紙の本は(とりわけこの手の文字ベースの本は)買わないが、
この本は紙でしか出ておらず、また紙で持っておきたいという気持ちもあり、迷わず書店で購入した。
数年前、知人に薦められてオレはこのシリーズを手に取った。
80年代中盤、競馬で言えばミスターシービーやシンボリルドルフの頃に、このエッセイはスタートしている。
そこから、数ヶ月に一度というペースで、
途中で掲載誌を変えつつも、雑誌に連載されたこのエッセイはずっと続いてきたのだ。
小説よりもエッセイのほうが、よりその時代の空気感を閉じ込めている。
時事ネタを多く含むので当然ではあるが、
その時代を生きた人間が「いま」についての考えを記したエッセイを一気に読み込み、
その時代を追体験するということは、大きな気付きになる。
オレは元来他人の影響を受けやすい性格だが、
この「すべての男は消耗品である。」には、これまでに経験したことのないレベルでの影響を受けた。
このエッセイを読む前と後とではブログやメールマガジンの文体も変わってしまった。
何より、「オレ」という一人称は、このエッセイにおける村上龍の影響である。
オレは別に、F1やキューバやテニスやワインや中田英寿に興味があるわけではない。
だが、そうした表層的なところでなく、
村上龍のエッセイの根底に流れるアティチュードに多大な影響を受けた。
ともすれば、(ことに近年の)村上龍は、
何に対しても世の中を諦めている、退廃的な人物のように見えるかもしれない。
だが、それは真逆であるとオレは思う。
最終巻のあとがきでも触れられているが、「すべての男は消耗品である。」という村上の言葉には、下の句がある。
その下の句(Googleで検索すればすぐに出てくるので、ここには書かない)の内容、
そして、30年以上にわたって「すべての男は消耗品である。」というタイトルでこのエッセイが連載されてきたという事実だけをもってして、
そのことは何よりも明確だ。
【今日のまとめ】
カンブリア宮殿は終わらないでほしい。というわけで。
- 2018/11/28(水) 20:00:00|
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