先日、ある元俳優が覚せい剤の使用で逮捕されたというニュースを目にした。
彼が覚せい剤関連で逮捕されるのは4度目で、過去には実刑判決も受けているそうだ。
キリストの「石を投げなさい」ではないが、このニュースを見てすぐに彼を叩ける人間はそうはいないだろう。
酒やタバコやギャンブルやその他多くのことに依存している人間はむしろそうでない人間よりも少ない。
ドラッグに依存しているという意味では、酒やタバコへの依存と覚せい剤への依存は同じだ。
ただ、それが合法であるか違法であるかという違いにすぎない。
もし今後「禁酒法」が施行されれば、いま酒に依存している人々は、覚せい剤中毒者と同じような扱いを受けることになるかもしれない
(勘違いしないで欲しいが、オレは、「だから覚せい剤を使った人間を許してやれ」と言っているわけではない)。
オレは一時期、クレーンゲームに依存していた。
今年の冬ごろまで依存していたので、様々なきっかけでまた依存が始まってしまうかもしれないという恐怖感は常にあるが、オレは少なくともいまのところ、半年間ほどゲームセンターに立ち入っていない。
依存症を克服するには、対象を完全に断つ以外の方法がないからだ
(たとえば、アルコール依存症の人間にとって「減酒」はありえない)。
ギャンブル依存症の人間が使ってはいけない金に手を出した、という話はよく聞くが、
オレも、別に借金ではないからスケールは小さいにしても、その月の家計が苦しくなるレベルまでクレーンゲームにつぎ込んでしまっていた。
クレーンゲームには設定があり、つぎ込んだ金額が一定に達しないと景品を取れないことはオレも知っていたのだが、知っていても「取れるかもしれない」と思ってしまうのが依存症の怖さだ。
やめるきっかけは、とあるアクシデントで、オレはそれによって我に返った。
数千円つぎ込んで手に入れた景品を、帰りの電車の網棚に忘れてしまったのである。
JRに問い合わせたが、結局その景品は見つからなかった。
オレは、「自分はいったい何をしていたんだ」という虚しさに打ちひしがれ、クレーンゲームから足を洗うことに決めたのである。
オレは医者ではないので正しいことは何も言えないが、こうした喪失体験はかなり「効く」のだろう。
たとえば、酒の依存であれば、酒のせいで大切な友人や家族を失ったりすれば、それが酒をやめるきっかけになるかもしれない。
依存は、「無駄な消耗を避ける」という判断を奪ってしまう。
その意味で依存は無駄な消耗の極致であるが、依存の最中にある人間には、きっとこの言葉は届かないだろう。
【今日のまとめ】
電子マネーでプレイできるタイプは特に危険だ。というわけで。
- 2018/09/13(木) 10:52:29|
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