東京オリンピックまであと2年を切り、ニュースでもオリンピック関連の話が増えてきた。
そのニュースに関連して、「まるで戦争のようだ」という話をする人が少なくない。
無給のボランティア(この書き方は妙に思えるかもしれないが、有給のボランティアも存在する)の募集をはじめ、
オリンピック期間中の通販利用の自粛呼びかけ、クールシェアリングやサマータイムの提案など、
オリンピックのために国民は協力しなさいと言わんばかりの状況に、過去の戦時下の挙国一致体制を想起するということのようだ。
しかし、それは当たり前だ。
そもそも、オリンピックは戦争の模型だからだ。
つまり、人間が本能的に持つ戦争欲求を、オリンピックという形で発散させているのである。
現実に戦争が起きた際にはオリンピックが中止されたことが何よりの証拠だ。
現実に戦争が起きていれば、戦争の模型であるオリンピックは必要ない。
オリンピックは戦争の模型なのだから、戦時下のような体制を国や都が強制したがるのも当然のことだ。
戦争は多くの市民や政治家から反対されるが、オリンピックが同様に反対されるのもそれと同じだ。
オリンピックが批判にさらされるのは東京に限ったことではなく、どの国のオリンピックも似たように叩かれている。
オリンピックを批判するのはかまわないとオレは思う。
だが、オリンピックは戦争の模型だと認識した上で見てみれば、状況は多少違って見えてくるだろう。
無駄な消耗を避けるための生き方とは、そのような生き方だ。
【今日のまとめ】
「模型」の定義付けも難しいが。というわけで。
- 2018/08/08(水) 17:12:35|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0