きょうは広島に原爆が投下された日だ。
原爆の威力や効果がどのようなものであったか、オレたちはただ伝え聞く以外にないが、
広島と長崎への投下以来、攻撃を目的とした原爆投下が世界中で一切なされていないというその事実のみをもって、その重大さを推し量ることができる。
原爆忌や平和記念式典において、人々は黙祷する。
黙祷は、表向きには、原爆や戦争で死んだ人々に祈りを捧げるものということになっているが、
それは言うまでもなく建前で、実際には、残された人々が精神的平穏を得るための行為だ。
要するに、葬式と同じだ。
葬式も、表向きには死んだ人を供養するための儀式だが、実際には、残された人々が精神的な区切りをつけるためのものとして機能している。
むろん、それがいけないとはオレは少しも思わないし、正しい行為だと思う。
戦争で家族や友人や先祖を亡くした人々が、そうした人々に対して祈り、また自身の心を少しでも平穏なものとするために黙祷をすることは当然のことだし、必要なことだ。
だが、そうであればこそ、オレは基本的に黙祷はしない
(「基本的に」というのは、オレも式典に出ていれば黙祷するということだ)。
オレが祈りを捧げたところで、原爆や戦争で死んだ人が浮かばれるわけではないし、それによって正当化される事実は何もない。
戦争は無駄な消耗の極致であり、
いじめが一生許されないのと同じで、戦争をしたという事実は一生消えず、許されない。
オレたちは、その事実を一生背負わなければならない
(勘違いしないでほしいが、これは「自虐史観」のようなことを言っているのではない)。
きょうのような日に、そのことをあらためて自覚し、あらためて業を背負う決意をするためにも、オレは黙祷をしたくない。
【今日のまとめ】
また呉に行きたい。というわけで。
- 2018/08/06(月) 22:19:31|
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