ここ何年かのインターネットを見ていて感じるのが、他罰的な人間がいやに増えた(ように見える)ということだ。
とりわけ、何らかの加害者に対して、第三者が異様なまでに厳しい態度を見せるという場面を頻繁に目にするようになった。
たとえば、「過去にいじめや非行や犯罪行為をしていた人間が、現在は更生して立派な仕事をしている」という類のニュースを報じるツイートのリプライ欄には、
決まって、「過去の事実は許されないのだから、いいことのように報じるな」とか、「罪を償え」という類のリプライが連なっている。
そうしたリプライの内容自体が間違っているかどうかはオレにはわからないが、少なくとも、無駄な消耗だとオレは思う。
直接にその人間から被害を受けた人間であるならともかく、
単なる第三者は、そもそも、その人間を許すとか許さないとか罰するとかいう関係にない。
ある(道徳的または法律上の)罪を犯した人間についてそれを罰することができるのは、国や(道徳的な罪の場合は)被害者とその関係者くらいであって、
第三者は何の手出しも口出しもできない。
要するに、上記のようなリプライは、何の意味もない無駄な消耗だということだ。
これは、他者の足を引っ張ることで相対的に自分の順位を上げて生き残ろうとする消極的な生き方のあらわれであるようにオレには思えるし、その意味でも無駄な消耗だ。
つまり、「過去に一度でも悪い行為をした人間はもうだめだ」という基準を勝手に設け、
自分は悪いことをしていないからそいつよりは自分の方が上だ、というマウンティングを図ろうとしているということだ。
たとえ違うと言われようと、傍からはそのようにしか見えていない。
何かを成し遂げて自分の順位を他人より上げることは無意味ではないだろうが、
自分は何もせずに、他人を打擲して相対的に自分の順位を上げようとすることは、何の意味もないし、愚かだ。
少なくとも、オレはそのような人間と何かをしたいとは思わない。
【今日のまとめ】
これは自戒でもあるのだが。というわけで。
- 2018/07/29(日) 20:00:00|
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