テレビのニュースで、あの障害者施設の殺傷事件から2年が経ったという特集を目にした。
もう2年経つのかと驚くのは、あの事件のインパクトによるものも大きいのだろう。
オレは、あの事件について、どう考えるべきかいまだによくわからない。
あの植松という男の思想が正しいのか誤っているのか、オレにはよくわからない。
むろん、正しくないのではないかとも思うのだが、それは果たして、全ての人間が共通してそう思えることなのだろうかとも考えてしまう。
現に、あの植松という男は、それを正しくないとは考えなかったからこそ、あの事件を起こした。
彼は今なおその思想を正しいと考えている。
そのような人間に、「あなたの思想は間違っていますよ」と言い聞かせることに、どれほどの意味があるのだろうか。
しかし、少なくとも、あの植松という男には、その思想を実行に移す権利はなかったということだけは、間違いなく言うことができる。
思想が正しいか否かにかかわらず、彼の行動は明確に誤っていた。
意思疎通ができない人間が何を考えているのか、オレたちにはわからない。
だが、それは「わからない」という状態が答えなのであって、彼ら自身がどうしたいと考えているかは永遠にわからない。
わからない状態であるにもかかわらず、「彼らはこう考えているだろう」と勝手に考えて行動することは、単なるエゴでしかない。
ある病院で、点滴に消毒を混ぜて複数の患者を殺害したとされる看護師がいた。
その事件について、ネット上で、ある別の看護師がそれに同情的なコメントを寄せているのを目にした。
意識不明の、いわゆる植物状態の患者は、相続などのために生かされているだけであって、
きっと生き続けたいとは考えていないのだから、死なせてやることが患者のためになるとその看護師は書いていた。
だが、それは他人による推測でしかない。
もちろん死にたいかもしれないが、生きたいかもしれない。
わからないのだ。
わからない以上、他人が勝手にそれを決定する権利はない。
その結果たとえ不合理な結末になろうとも、決定する権利のない人間には決定はできない。
ただ、それだけのことだ。
それは、無駄な消耗であるどころか、他者へ取り返しのつかない危害を加えてしまう、有害な消耗である。
【今日のまとめ】
コミュニケーションにおいても妥当することだ。というわけで。
- 2018/07/28(土) 20:00:00|
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