懐かしい物事について話したり書いたりするときに、「昭和だ」と言う人がいる。
だが、その人が「昭和だ」という物事を実際に目にしてみると、
それはまったく昭和の物事ではなく、平成初期や中期の物事であることが非常に多い。
そうした人々の「昭和」のクオリアは、実際の昭和のそれとはまったく異なっている。
あるいは、「昭和」を、単に「古い」くらいの意味合いで使っているのかもしれない。
これは無駄な消耗だ。
単に「古い」くらいの意味で使うのであれば、ただ「古い」と言えばそれで済む。
スラングやある種の符丁として「昭和」を使うことはオレも別に否定はしないが、
昭和でない物事を「昭和」と呼ぶのは、単なる誤りであると捉えられることがほとんどだし、そもそもスラングや符丁として使っているようにも思えない。
また、仮に、昭和でない物事を本当に昭和だと思いこんでいるのだとしたら、
それは少し調べればすぐにわかることを調べていないことになるから、やはり無駄な消耗になる。
来年で平成も終わる。
いまから20年も経つと、今度は、平成ではない次の元号のできごとも、「平成だ」と言われるようになるのだろうか。
この無駄な消耗は、元号という文化を持つ国特有のものなので、海外の例との比較が難しい。
その意味では、純粋に興味深いところだ。
【今日のまとめ】
オレがリアルタイムで知っていたら間違いなく平成だ。というわけで。
- 2018/07/16(月) 18:26:02|
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