遅刻癖のある人がいる。
そういう人は、何度でも遅刻してくるし、基本的に時間は守れない。
このような人に対し、注意したり怒ったりして矯正しようとするのは無駄な消耗だ。
オレは医者ではないので診断はできないが、そういう人は何かしらの病気だからだ。
彼らの矯正に必要なのは治療であって、オレたちが注意したり怒ることではない。
よく、相手が遅刻したことに対して「自分の時間が奪われた」と考える人がいるが、これも無駄な消耗だ。
こうした人は、いわゆる「欠乏マインド」にとらわれている。
目先の怒りや苛立ちに意識が向き、遅刻する人と待ち合わせたのは自らの選択であるという事実が見えなくなってしまっている。
つまるところ、単にその相手自身が遅刻しただけで、「自分の時間が奪われた」という客観的事実はどこにも存在しない。
人生を限られたパイの奪い合いだと考えている人間は、そうした考え方になる。
繰り返すが、遅刻する人と待ち合わせたのは自らの選択である。
つまり、「遅刻する人と待ち合わせはしない」という選択ができたのに、それをしなかったということだ。
遅刻する人が嫌なのであれば、そうした人間とは距離を置けばいい。
実際、オレはほとんどの場合でそのようにしているので、相手に遅刻されることはほとんどない。
そもそも遅刻する人間とは付き合わないからだ。
自らの選択である以上、遅刻する人を糾弾するのは無駄な消耗だ。
それは、自らの選択を糾弾しているようなものだからだ。
「無駄な消耗を避ける」という信念に基づいてなお遅刻する人と付き合うということは、
必然的に、その相手は、遅刻癖があることを差し置いてもなお付き合うに値する魅力を有しているということになる。
それならば、その魅力にフォーカスすべきであって、遅刻癖を糾弾している場合ではない。
これは遅刻癖の問題に限られず、人付き合いの多くについて通用する考え方なので、折にふれて確認するようにしたい。
【今日のまとめ】
寝坊はオレも経験がある。というわけで。
- 2018/07/15(日) 18:32:05|
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