昨日の関西の地震で、5人の死者が出たという。
今後増えていく可能性はあるが、少なくとも、東日本大震災のように1万人を超える死者が出るということはないだろう。
津波や大規模な火災さえなければ、地震の規模が大きくとも死傷者は減らすことができるということであり、
今後、防災技術がより発展すれば、いつか死者をゼロに抑えることのできる日が来るかもしれない。
不思議なのが、1万人以上が死んだ東日本大震災よりも、5人が死んだ今回の地震のほうが、なぜだか悲しいということだ。
無意識に、5人程度の死ならどうにかして防げたと思ってしまうのかもしれない。
あるいは、5人と少ないと、死んだ一人ひとりの顔が浮かんでしまい、彼らに感情移入する結果、悲しくなるのかもしれない。
先日オレの祖母が死んだが、人が1人死ぬとやはり悲しい。
普通に考えれば、1万人が死んだとなれば、その一万倍の悲しみが押し寄せてもおかしくない。
だが、もしそのような悲しみをまともに受ければ、人間の精神は破壊され、おそらく死んでしまうだろう。
だから、一種の防衛機制として、死者数が一定数を超えた場合には、悲しみが抽象化されるように人間の精神がプログラムされているのだと思う。
大勢が死ぬことで一人ひとりの命の重みが変わるわけでではもちろんないが、精神的なダメージに関しては、そうした局面があることは否定できない。
もっとも、これが戦争などの局面になると、
「ここまできたら1000人死のうが2000人死のうが同じだ」という考えになる可能性がある。
誰も死なないことと1人死ぬこと、1人死ぬことと5人死ぬこととでは大違いだが、
1000人と2000人では、なぜか大して変わらないように思えてきてしまう。
これは、先に述べた人間のプログラムのバグなのかもしれない。
人が死んだときに悲しむことは、無駄な消耗ではない。
だが、それを意識的にせよ無意識的にせよ、ある程度コントロールしなければ生き抜けないことは確かだ。
【今日のまとめ】
物の下敷きになることは「自然災害」なのだろうか。というわけで。
- 2018/06/19(火) 19:33:07|
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