ある国民的に有名な芸能人が高校生に対する強制わいせつで書類送検されたというニュースを先日目にした。
SNSでは、そのニュースについて、「高校生にも非がある」という論調の意見が散見されている。
その意見についてはオレはどうでもいい。
しかし、オレは、あのレベルの国民的な芸能人からの自宅への誘いを断れば、
断ったことによって今後の仕事や生活への圧力をかけられる恐怖を覚えるのが普通だと思う(被害者はテレビに出演した人間なので、おそらくタレントやモデルだろう)。
そう考えれば、その芸能人が好きか嫌いかや、性的な行為につながるおそれがあるか否かにかかわらず、断るという選択肢は取れないのではないかと思うのだが、そういうことを言ったり書いたりしている人間は誰もいない。
それは不思議なことだ。
人間、何も考えずに行動するということは通常ない。
どんなバカで無計画な人間でも、バカで無計画な思考に基づいて行動している。
その行動にはそれなりの理由があると考えるのが普通なのだが、
今回のような事件があったとき、人々は決まって、被害者にも問題はあるとか、
あるいはその逆で、被害者には非はなく加害者が悪いとか、責任の所在や過失の割合について議論を始める。
考えるべきことは(もっとも、自分に関係のない事件について考えるべきことなど本当はないのだが、それは置いておく)、
なぜ被害者や加害者がそうした行為に及んだのかなのだが、誰もそれを議論しようとしない。
それは明らかに無駄な消耗だ。
ある終わってしまった出来事につき、再現性を持ち、類似の事例の防止策となり得るのは、
上記の通り、なぜ当事者がそのような行為に及んだかであり、誰に責任があるかではない。
なぜ誰も、それを論じようとしないのだろうか。
それは単純に、自分が類似の事例の加害者や被害者になり得るという意識がないからだ。
当事者意識のなさは、無駄な消耗だ。
有事の際には、当事者意識のない人間から先に淘汰されていく。
しかし、当事者意識のない人間は、このような説明をしても理解できないだろう。
オレはそのような人間を相手にはしたくない。
【今日のまとめ】
では誰に向けて書いているのかという話になるが。というわけで。
- 2018/04/28(土) 20:07:54|
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