部屋を整理していたら、大宮の鉄道博物館の招待券が出てきた。
有効期限は2012年3月末となっていて、既に使えない。
だが、意識的に捨てずにとっておいたものなので、今後も捨てることはない。
この招待券は、7年前の3月11日に鉄道博物館で渡されたものだ。
オレは当時付き合っていた女性と鉄道博物館に来ていた。
展示物の見学を一通り済ませ、2階にあるレストランで昼食をとっていたその時、強い揺れに襲われた。
鉄道博物館は当時まだ完成から数年で、最新の耐震構造を備えていたのだろう。
建物全体がきしむように揺れたが、それはむしろショックを吸収するために意図的に大きく揺らしているような印象だった。
揺れは立て続けに二度ほどあったような記憶がある。
オレたちは、最初の揺れの際には、揺れを無視してそのままおどけるように食事を続ける余裕があった。
だが、二度目となるとそうはいかず、机の下に身を隠した。
周囲の人々も動揺はしている様子だったが、叫んだり、明らかなパニック状態に陥っている人はいなかった。
程なくして厨房からスタッフが現れ、客の全員が一階のロビーへと集められた。
大きな地震であったため、ざわついた様子だったが、
もちろんこの時点ではあれほどの被害が東北や関東の一部で起きていることなど知る由もない。
しばしその場で待機した後、客の一人一人に上述の招待券が配られ、客は解散した。
ニューシャトルは当然動いているはずもなく、オレたちは徒歩で大宮駅へと向かった。
駅前は既に人で溢れかえっていた。
タクシーに並ぶ列、電車がすべて止まり途方に暮れる人々。
駅の中央通路は、作動したスプリンクラーにより水浸しになっていた。
オレはひとまず母親に連絡をとろうとしたが、電話は繋がらない。
後から考えれば当然のことだったが、オレはこの辺りで事態の深刻さを悟った。
結局オレたちは、彼女の祖父母の家まで30分ほど歩き、しばらく休ませてもらった。
そこで見たテレビの映像により、オレたちはいま何が起きているのかを初めて目の当たりにする。
恐怖というよりは呆然しかなかったと記憶している。
幸運にも、彼女の知人が車を出してくれ、オレはその晩に家まで帰宅することができた。
電車は翌日まで動かなかったのでその方には感謝するしかなかったが、
道中の風景は相次ぐ停電により異様なほど真っ暗だったことをいまだに覚えている。
オレの部屋は、本や荷物が多少崩れていた以外は何ともなく、家自体も無傷だった。
テレビで繰り返し流れる津波の映像を眺めつつ、オレは眠りについたのだった。
先日も書いた通り、忘れてもかまわない。
だが、忘れても思い出せるように、記録しなければならない。
だからオレは、7年経ってもいまだ鮮明なこの記憶を、こうして残しておくことにした。
【今日のまとめ】
いづみやは普通に営業していたと聞く。というわけで。
- 2018/03/12(月) 00:01:19|
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