東日本大震災からもうすぐ7年が経つ。
この時期になるとテレビやインターネットで繰り返されるのが、「忘れてはいけない」という言葉だ。
絶大な被害があり、多くの人間が死に、行方不明になった。
その事実や教訓を忘れてはいけないというのは、至極当然のように思える。
だが、重要なのは、「忘れてはいけない」ということよりも、「いつでも思い出せる」ということなのではないかと思う。
「忘れてはいけない」というのは、記憶に頼るということだ。
記憶は、いくらでも悪意なしに改竄される。
人間は嫌な出来事や辛い出来事から精神を防衛するようにできているので、それは当然のことだ。
生き残った語り部もいつかは死ぬので、誰かがそれを語り継ぐことになるが、
その伝承のうちに、いつかその「記憶」は全く別の話にすり替わってしまうかもしれない。
記憶ではなく、記録に頼るべきだとオレは思う。
記録は、それが適切に管理される限りにおいては、途中で内容が変化したり、薄れてしまうことはない。
いつでも、記録した段階の情報を復元することができる。
中世の古文書や地層から、現在の想定よりも高い津波が過去に到達していたことが判明したというニュースは何度となく耳にした。
古文書や地層は客観的な記録なので、途中で勝手に変化してしまうことはない。
東日本大震災についても、それを記録しておけば、たとえ全員が震災について忘れたとしても後から思い出すことができる。
もちろん、そうしたアーカイブは既に各所で行われていることではあるが、
それは国やメディア、自治体のレベルで行われているにすぎず、
コミュニティや個人のレベルではいまだに記憶に頼っていることが多いと思われる。
記録と異なり、記憶は、全員がそれを失ったらそこで終わりで、復元できない。
いくら生々しく、いくらその時点では記録よりも優秀に事実や教訓を伝えていたとしても、失われればもはや何も残らない。
それを無駄な消耗だとは言いたくないが、結果としてそれに近いものになってしまう。
忘れても別にいいのである。
ただ、思い出すことさえできれば。
しかし、「忘れないこと」に重きを置いてしまえば、いざ忘れてしまった場合に二度と思い出せない。
だから、記録するほうがいいし、記録しなければならない。
それは日常の出来事や思考についても言えることで、このブログもその一環だ。
【今日のまとめ】
消えたらどうするかという問題もあるが。というわけで。
- 2018/03/08(木) 21:43:43|
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