先日、NHKで、冤罪のドキュメンタリ番組を目にした。
自白意外にろくな証拠もないまま無期懲役の判決が確定し、20年間服役した後で無罪となった女性が取り上げられていた。
こうした人を見て、「証拠がないだけで本当はやったのではないか」と言う人がいる。
だが、本当にやったかどうかではなく、自白しか事実上の証拠がないのに有罪とすること自体が問題だ。
無罪と無実は違う。
無実かどうかはそれこそ神のみぞ知ることであり、神のみぞ知ることを人間が裁くことは不可能であり、かつ許されない。
その数日後、殺人罪で12年服役した看護助手の女性の再審が確定したというニュースを目にした。
これも、実質的な証拠が自白しかないまま刑が確定したケースだ。
殺人罪には死刑が法定刑として定められている。
もし、彼女たちが懲役刑でなく死刑となり、もしその刑が執行されていたらと考えると恐ろしい。
オレは死刑については消極的な考えを持っている。
こう書くと、「お前は凶悪な人間を生かしておいていいと思っているのか、人でなしだ」などと言われるかもしれない。
インターネットで実際にそう言われたこともある。
だが、オレはそんなことを言ったことも考えたこともない。
凶悪な人間はそれに見合った罰を受けるべきであるとさえオレは思っているし、
自分が被害者遺族であれば、加害者を極刑に処してもらいたいと考えるだろう。
しかし、そのために死刑という制度を維持することは、上記のような冤罪の疑いがある人間の命を奪うリスクを抱える。
もっと言えば、国家権力が冤罪を作り上げ、国家にとって都合の悪い人間を処刑することさえ可能になる。
もちろん、それを理由に死刑を廃止すれば、凶悪な人間も死刑にはならないということになる。
結局は、どちらを取るかの問題だ。
「凶悪犯さえ処刑できれば、無辜の人間が犠牲になるリスクが多少存在しても仕方がない」というのが国民の多数の考えなのであれば、それはそれでいいとオレは思っている。
民主主義国家というコミュニティでは、個人がどう考えるかではなく、民意がどうであるかによりシステムが決定されるからだ。
だが、あくまでオレ個人としては、死刑というシステムは無駄な消耗だと思っている。
淘汰されてしかるべき人間は自然に淘汰される運命にあり、そこに故意に手を下す必要はない。
【今日のまとめ】
Twitterに書くとクソリプが来る。というわけで。
- 2017/12/21(木) 21:25:12|
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