近年のSNSを見ていると、「やられたらやり返す」という風潮が以前にもまして高まっているように思える。
たとえば、自分が送られてきたメッセージやリプライのスクリーンショットを掲載し、
「自分はこんな酷いことをされた」ということを数多くの人間に知らせることで、相手に社会的制裁を加えるという行為などが代表的な例だ。
オレは別にそれがいけないとか、やめろと言っているわけではない。
だが、オレ個人としては、「やられたらやり返す」という考え方はあまり好きではないのだ。
たとえば、オレが誰かに何かひどい行為をされ、
オレがその誰かにやり返すことが社会的に是認または推奨される場合であっても、
そのやり返す行為を単体として客観的にみて、それが品格のない行為であれば、
オレはそうした行為に手を染めたくないと思ってしまう。
オレは、一時的な怒りや苛立ちに身を任せてやり返し、相手と同じレベルに落ちたくない。
相手の行為は当然ながら無駄な消耗だが、そうであるならば、やり返す行為もまた無駄な消耗だからだ。
「やられたらやり返す」ことを正義とする風潮は、「やられっぱなしでは恥ずかしい」という思考が根底にあるように感じられる。
すなわち、やり返さずに相手の行為で終わることは恥ずかしいし惨めだから、自分が相手にやり返すことで終わらせようという気持ちがあるのではないかとオレは思う。
だが、恥ずかしいとか惨めだというのは、自分で決めることで、周りが決めることではない。
オレにとっては、一時の感情でやり返し、無駄な消耗をしてしまうことの方が、よほど恥ずかしいし惨めだ。
だから、オレはやり返さない
(勘違いしないで欲しいが、もちろん、やられた行為が犯罪であれば、オレはもちろん法的措置に出る)。
オレのこのような考え方が、宗教的な思考だと思う人もいるかもしれない。
だが、オレは単に、いつも言っている通り、無駄な消耗を避けたいだけだ。
別に相手に赦しを与えているわけではないから、オレの考えは宗教的なものとは大きく異なる。
やり返すことで清々しい気持ちになれるのなら、それは無駄な消耗ではないだろうから、オレはそれを否定しない。
だが、オレはそうは思わないという、ただそれだけなのだ。
【今日のまとめ】
単に自意識が過剰なだけだ。というわけで。
- 2017/12/14(木) 23:50:40|
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