昨日、大相撲の横綱の引退会見をテレビで見た。
暴行事件の責任を取って引退するというのは自然なことだし、
たとえ不本意であったり、他人に強いられた結果であろうとも、
本人が自身で決めたことなので、オレたちがどうこう言える問題ではない。
気になったのは、テレビやネットで、「横綱が被害者の力士に謝罪しなかった」ということがまるで問題のように扱われていたことだ。
これは引退会見であって謝罪会見ではない。
それに、被害者の力士は会見の場にいないのだから、その場にいない人間に対して謝ることはむしろ不自然だ。
公の場で謝ってやったのだからこれでいいだろう、ということにさえなりかねない。
この横綱の件に限ったことではない。
それがこの国でだけのことかどうかは分からないが、
直接関係のない人間の前で、その場にいない人間に対して謝罪しないと、まるで謝罪したことにならないような風潮が社会にはある。
横綱はオレたちに対して暴行したわけではないし、先に書いた通り、被害者の力士も会見の場にはいなかった。
常識的に考えれば、横綱がどこか別の場所で、暴行の被害者の力士に対して謝るのが「謝罪」のはずだが、
社会ではそれと全く異なる状況で謝罪の言葉を記録することを「謝罪」と考えているかのようだ。
これはまさに無駄な消耗だ。
本来意味のないことに対して、まるでそれが必要不可欠であるかのような風潮を作り、
その風潮にそぐわない者を批判したり、糾弾したりする。
その行為に何の意味があるのかオレにはわからないし、きっと誰もわからないだろう。
なぜならそれは無駄な消耗だからだ。
無駄な消耗に意味などない。
もし意味があれば、それは無駄な消耗ではないからだ。
最悪なのは、それが無駄な消耗であると気付いていない人間が明らかに多数存在していることだ。
そのことはボディブローのようにこの国を疲弊させていき、衰退に導くだろう。
【今日のまとめ】
組長がキレなかったのは偉い。というわけで。
- 2017/11/30(木) 23:11:06|
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