インターネットがオレたちの生活に溶け込んで久しい。
かつては、インターネットといえばほとんどコンピュータの前に座ってネットサーフィンを楽しむことを指していたが、
今ではコンピュータを持たない若者がスマートフォンやゲーム機でWebサイトを見るのも日常茶飯事になった。
むしろ、コンピュータの前に座ってネットサーフィンする人間は、もはや少数派かもしれない。
就職活動中の学生は、エントリーの開始時刻になったら、授業中であろうとすぐに企業のサイトに接続しなければスタートラインにさえ立てない。
病院の予約、電車や飛行機の座席指定なども、インターネットを介さずに行おうとすれば非常に手間がかかり、
利用者がインターネットを用いることを前提としている。
もはやインターネットは生活インフラの一部だ。
だが、インターネットがそうした生活インフラになる一方で、かつて考えられていたようなインターネットの万能性は存在しないことが明らかになってきた。
その万能性とは、インターネットにはあらゆる情報が存在し、永久に参照できるというものだが、
実際には永久どころか、数年前の情報でさえインターネットから消え去っていることも少なくない。
2000年代初頭には個人のWebサイトが流行したが、その中で現存するサイトはもう半分もない。
たいてい、サイトが使用していたWebサービスが終了したり、管理人がサーバ代を支払わなくなってドメインごと消滅している。
慈善事業ではないのだからそれは当然の帰趨だ。
検索エンジンも、かつてとは仕様が変わり、古いサイトは検索結果に表示されないことが多くなった。
以前は、多くの人間が、検索すればいつでも欲しい情報に辿り着けると考えていたし、現実もそれに近かった。
だが、今では、たとえ検索したい情報を一字一句違わず記憶していたとしても、そのワードから何もヒットしない事態さえ生じている。
「インターネットには何でもある」というのはもはや事実ではなく、今後それを夢見ることさえも難しくなりつつある。
結局のところ、オレたちは、能動的に、そして積極的に情報をアーカイブするしかないということだ。
日記をつけ、本を買い、写真を撮り、
数年後、10年後、20年後に必要になったり価値が付くであろう物事を各自で記録していくことでのみ、
オレたちは欲しい情報を永久に保持することができる。
たとえば、10年前に閉店したラーメン屋のことを思い出したい時に、インターネットはほとんど無力だ。
写真などろくに残っていないし、
店内がどうであったか、ラーメンはどんな味だったか、
曖昧でいい加減な証言はあるかもしれないが、それはもはや検証の不可能な思い出でしかない。
少なくとも、まず自分に都合のいい情報は存在しない。
なぜなら、情報を記録する人間は、オレの都合に合わせて記録したわけではないからだ。
だが、その店のラーメンや店構えの写真を高解像度で撮影しておき、
日記にその味や店の雰囲気を書いておき、
その店が取り上げられた雑誌を買っておけば、10年後であってもその店を思い出せる。
それらはすべて自分のための情報で、自分に都合よく記録されているからだ。
こうした作業を地道に行っていけば、それは将来の財産になる。
あくまで自分のための情報であっても、それが感性の似た他人の役に立つことも少なくないだろう。
オレたちがいますべきことは、インターネットで調べることでなく、自ら記録することなのだ。
逆に言えば、それを行わずに漫然と10年後を迎えたとき、
オレたちの周囲には必要な情報は何も残っていないだろう。
そんな無駄な消耗を避ける上でも、オレたちは日々記録しなければならない。
【今日のまとめ】
一画面を少し超えてしまった。というわけで。
- 2017/11/23(木) 20:00:00|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0