昨日、ある政党の結成が発表された。
その党名には「希望」の文字が含まれている。
会見で、党首は「この国には希望がない。国民に希望を与えたい」という旨のことを言っていた。
だが、希望は国にあるものではないし、他人から与えられるものでもないとオレは思う。
希望というのは内発的なものだ。
自信や勇気と同じで、何かしらの物事を見たり触れたりして、心に湧き上がるのが希望だ。
よく、「希望を与える」とか、「希望を与えられた」という言い回しを目にしたり耳にすることがある。
だが、先に書いた通り、希望はどこまでも内発的なものなのだ。
心の中に希望が湧き上がらない人間は、周囲がどんな行動を起こしたところで、希望を持つことはない。
きっと、そんなことは党首や党員も理解しているのだろう。
オレよりも頭のいい人間が、その程度のことをわからないはずがないからだ。
だが、「希望を与える」という言い回しが耳当たりのいいことは事実だ。
オリンピックの中継などでは、「感動を与えた」とか「勇気を与えた」という言葉が繰り返されるが、
感動も勇気も、希望と同じで内発的なもので、与えられるものではない。
その言葉には何の意味もなく、ただ何となく使っているだけだ。
耳当たりのいい言葉で注目を集めようとするだけの政党に、まともな政策など期待できない。
彼らによって与えられるのは、希望ではなく無駄な消耗だ。
【今日のまとめ】
サークルクラッシャー。というわけで。
- 2017/09/27(水) 22:55:43|
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