先日、Twitterで、ある芸人が「戦争になっても自分は行かない」とツイートしたことが話題になった。
オレは別にそう考えることがおかしいとは特に思わない。
現代の高度化された戦争では、開戦の後で間に合わせで一般国民を徴兵したところで足手まといになるだけで、
仮にニートや無職の受け皿として臨時自衛官の制度を設けたとしてもそれは希望制になるから、
「行かない」と表明している人間が兵士になることは今後ないからだ。
だから先のツイートは、客観的に見れば、「開戦して仮に臨時自衛官などの制度が儲けられても、自分は志願しない」という意思表明にすぎない。
だが、自分は「行かない」、という表現は気になる。
この表現をみるに、彼は、戦争を「行く」ものだと思っていると考えられるからだ。
大東亜戦争は日本による侵略戦争だったので、日本の領土は現在よりも広かった。
だから、当時日本の一部であった領土に「行き」、防衛のために戦わざるを得なかった。
しかし、現在の日本は憲法により侵略戦争を放棄しているし、
自ら開戦することもできないので、「行く」道理がない。
むしろ、もし今後戦争が起きるとすれば、それは本土や沖縄や北海道が舞台となる防衛のための戦いになる。
その戦争は今いる場所で起きるので、行くとか行かないとかの話ではない。
行かなくても、兵士でなくても、既に自分は戦地にいるのである。
戦争は「行く」ものだという価値観しか持っていなければこうした発想は浮かんでこないのだろうが、これは事実である。
これは想像力の問題なのかもしれない。
かつてあったような「行く」戦争ではなく、今ここで起こる戦争があり得るということをリアルに想像できなければ、
もしそれが現実となった場合、精神的な動揺は計り知れない。
無駄な消耗を少しでも減らし、一秒でも長く生き残るためには、そうした想像の網を常に張り巡らせる必要がある。
【今日のまとめ】
家から外に「行く」程度の意味だったら申し訳ない。というわけで。
- 2017/08/17(木) 23:02:59|
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