オレは一万円札を「諭吉」と呼ぶ人間が苦手だ。
誰かが一万円札を「諭吉」と呼ぶと、オレは不機嫌を隠せなくなる。
これはオレが塾員なので、福澤先生を呼び捨てにする人間に嫌悪感を抱くというのももちろんあるのだろうが、
それよりも、お金のことをそのような隠語で呼ぶことに卑しさを感じるのである。
一万円札のことを一万円札と呼ぶことは、汚いことでもなんでもない。
だが、社会には、お金を直接的に言葉で示すことに対するよくわからない後ろめたさのようなものがある。
一万円を「一」、三万円を「三」と呼ぶようなこともあるが、
それはなぜ「一万円」や「三万円」ではいけないのだろうか。
その問いに多くの人は「なんとなく直接言うのは汚いから」と答えるのかもしれないが、
おそらく明確で筋の通った理由を示すことのできる人間はほとんどいないだろう。
それにもかかわらず隠語や遠回しな呼び方をするのは、
とりあえずそう言っておけば無難だろうとか、それらしく聞こえるだろうという考えが透けて見えるようで、卑しい。
そして、それは無駄な消耗である。
はっきりした理由があるわけでもないのに、
なんとなく直接言うのは汚いとか、そういう雰囲気があるとかいうことを理由にして、あえてわかりにくい呼び方をすることは、精神を消耗させる。
一万円札や一万円を「一万円」と呼ぶことには何の問題もなく、むしろ明確で誤解を招かないのだから、
そう呼べば無駄な消耗を避けることができる。
幸い、オレが親しくしている人間には、一万円札を「諭吉」などと呼ぶ人間はほとんどいない。
それは、オレが無駄な消耗を避けた結果、
オレと同じく無駄な消耗を避けて日々を生き抜いている人々だけがオレの友人や知人となったということなのかもしれない。
【今日のまとめ】
でも若き血は歌えない。
というわけで。
- 2017/07/14(金) 22:30:15|
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