先日、
「インターネットで知り合った人間に現実で会うのはいいが、現実での知り合いにインターネットのアカウントを見られるのは大変だ」
という旨の書き込みをSNSで目にした。
言っている意味は理解できる。
だが、それは、
「インターネットでの人格と現実での人格は異なり、またそれが当然である」という理解を前提にしている。
また、「現実とは異なるインターネットでの人格は、現実での知り合いに見せると問題がある人格である」という理解も透けて見える。
インターネットと現実での人格が異なれば、現実での知り合いにインターネットの人格を知られることは、
まるで本性を覗かれてしまうようで困るということなのだろう。
だが、それは、そういう人もいる、またはそういう人が多いというだけで、当然でも何でもない。
インターネットと現実の人格を切り分ける必要はないし、そのような法律やマナーも存在しないからだ。
オレは、インターネットと現実での人格を切り分けることはしていない。
というよりも、オレは不器用なので、そんな切り分けができない。
オレは実名でこのブログやメールマガジンやTwitterをやっている。
当然、実名である以上、検索や人づてでそれらの存在が知られ、
インターネットで知り合ったわけではない昔からの友人や知人がそれらを読んでいたことを後から知ったことも多い。
だが、そうした知人や友人との関係が悪化したり、縁を失ったということはこれまでない。
オレは、インターネットで普段書いているようなことを現実でも言っているし、
現実で普段言っているようなことをインターネットで書いているからだ。
知人や友人は、それによってオレの新たな本性を見ることなどない。
それで何かを失ったということはないし、きっとオレはこれからも何も失わない。
ただ、社会には、「インターネットと現実での人格は切り分けなければ、何かを失う」という強迫観念のようなものが確かに存在している。
それは言うまでもなく、実体のない無駄な消耗だ。
【今日のまとめ】
「鳩」の理由だけは訊かれる。
というわけで。
- 2017/07/01(土) 16:56:47|
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