最近、国会で、ある文書の存在を巡った争いが毎日のように繰り広げられている。
それがどんな文書であるかは、大まかには誰もが知っているだろうし、あらためて書くことではないだろう。
そこでは、その文書が存在したかどうかがメインの論点になっているようだ。
その文書が本物なのか捏造なのか、その文書が文科省内のオフィシャルな文書として存在したのか否か、
そればかりが争われている。
オレはこの国会やそれに関するニュースを見ていて不思議に思うのだが、
その文書が存在したとして、あるいは存在しなかったとして、その結果どうなるのだろう。
少なくとも、追求する側の野党は、それを充分に明らかにしているようには思えない。
これが裁判であれば、ある証拠の存在が争われているとき、
その証拠によって何を証明するのかをはじめに明らかにしなければならない。
いくら証拠が実在したとしても、その証拠によって証明される事実が裁判と何の関係もなければ、
そんな証拠の存在を調べても時間の無駄だからだ。
だが、いま国会では、そうした時間の無駄遣いを堂々とやっているように思われる。
実際のところ、「総理のご意向」と書かれた文書の存在が証明されたとして、
それによって分かる事実は「『総理のご意向』と書かれた文書が実在した」というだけである。
つまり、たとえ文書が実在しても、本当に総理の意向だったということはまったく証明されない。
総理の意向があったとしてさえ特に問題はないという見解さえ多いのに、
それすら証明できない文書の存在を争って、野党は何をしたいのだろう。
これは完全に無駄な消耗である。
無駄な消耗をしているような党に、与党の行動をまともに監視することなど期待できないし、
オレはそんな党に投票できない。
【今日のまとめ】
PDFの編集の仕方は勉強になる。というわけで。
- 2017/06/06(火) 22:34:04|
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