よく、自分で大学の学費を払ったとか、奨学金を完済したという人を見掛ける。
それは別におかしなことではない。
だが、そうした行為は、「偉い」とか「立派」だと言われる。
それがどう偉いとか立派なのか、オレはよくわからない。
それどころか、そう考えることは害であるとすらオレは思う。
自分で大学の学費を払うしかなかったり、奨学金を完済するしかなかったというのならば仕方がない。
そうしなければ大学に行けないのであれば、それ以外に方法がない。
それ以外に方法がないのならば、たとえ大変であってもそれは無駄な消耗ではないからだ。
だが、その行為が偉いし立派だからそうした、
すなわち、そうしなければみっともないから、親が金を出してくれるのに無理をして自分で払ったというのであれば、それは無駄な消耗である。
そして、そうした人々をその無駄な消耗へと導いてしまった、
「自分で学費や奨学金を払うのは偉いし立派だ」という価値観は、忌避されるべきものである。
自分で大学の学費を払い、奨学金を完済した人は、いま金銭的に裕福だろうか。
そうした人は、自分の子供の教育に使う金や、親の介護に使う金への蓄えがあるだろうか。
おそらく、大多数の人はそんな蓄えなどないだろう。
子供の教育どころか、子供を作ることさえできないかもしれない。
そして、かつての選択次第では親に出してもらえたかもしれない学費相当分の親の蓄えは、親が自らの介護費用として消費するだけだ。
彼ら自身には、何も残らない。
それは淘汰への道を早めてしまう。
上の世代が溜め込んで市場に流通させようとしない金を何とか市場に絞り出すのは、下の世代の役割である。
必要な金を上の世代に頼み込んで出してもらうことは、恥ずかしいことどころか、
むしろそれこそが偉いし立派な行為だ。
そして、その金は親に返すのではなく、自分の下の世代の教育に使い、余れば親の介護に使えばいい。
そのために使った金は市場に流通するので、好循環が続く。
繰り返すが、
この好循環を阻害し、上の世代が金を溜め込むことを正当化しようとする、
「自分で学費や奨学金を払うのは偉いし立派だ」という価値観は、忌避されるべきものだ。
それはまさしく無駄な消耗だからである。
【今日のまとめ】
最終的にはいつもの結論。というわけで。
- 2017/05/11(木) 21:32:25|
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