「どうすれば文章がうまくなるのか」という問いに対するある有名作家の答えがネット上で話題になっていた。
その答えとは、文章のうまさは結局センスで決まるというものだった。
オレは作家でもなければ文章で食べているわけでもないし、
また自分の文章がうまくないことを自覚しているので、この指摘には耳が痛いが、
あくまでオレ一人の意見としていえば、「どうすれば文章がうまくなるのか」という質問に対する答えは、
「できるだけ多くの文体を獲得する」ことだと思う。
ある人間の文章は、その人間が人生において獲得してきた文体によって決まる。
その獲得の経緯はさまざまで、
読書による場合もあれば会話による場合もあるし、自身の発明による場合もある。
そうして獲得した文体が自身の中で渾然一体となり、その人間の文体となる。
だから、獲得した文体が多ければ多いほど、文章がうまい人間であるということになる。
もちろん、センスの問題があることは否定できない。
センスのある人間の方が、少ない媒体から効率よく文体を獲得することが可能だろうからだ。
多くの人間は、一冊の本を読んだり、一人の人間と会話したところで、
そこから必ず新たな文体を獲得できるとは限らない。
すなわち、本を読めば読むほど、または人と話せば話すほど文章がうまくなるという単純な話ではないのだが、
センスのある人間は、多くのそうでない人間に比べ、その効率がいいということだ。
しかし、いくらセンスがある人間でも、
文体を獲得する作業を放棄すれば、文章がうまくなることはない。
できるだけ多くの文体を獲得することが文章がうまくなる条件である以上、
文体の獲得ができなければ、いくらセンスがあっても無意味だからだ。
つまり、センスがあるのにまったく文体を獲得しない人間よりも、
センスはないが前者より多くの文体を獲得した人間の方が、文章はうまいということになる。
そうだとすれば、「文章のうまさは結局センスで決まる」ということは、必ずしも正しくはない。
オレは自分にセンスがあるとは思えないし、かといって努力により多くの文体を獲得してきたわけでもない。
だから、オレが自分の文章を下手だと思っていて、納得がいかないというのは当然の結果だ。
だが、少ないながらオレがこれまで獲得してきた文体は失われることはないし、
オレはたとえ少しずつでも、文体を獲得する作業をあきらめるつもりはない。
毎日書き続けているこのブログに、その成果が現れることをオレは期待している。
【今日のまとめ】
その作家の本をオレは読んだことがない。というわけで。
- 2017/01/02(月) 22:41:39|
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