先日、今年のノーベル賞の発表があったが、
ネット上では、日本人受賞者へのインタビューで、「この研究が何の役に立つのか」と質問したテレビのキャスターや記者が批判されていた。
おそらく、「何の役に立つのか」という質問に対し、「役に立たないなら研究してはいけない、研究する意味がない」というニュアンスを感じ取ったのだと思われる。
あるいは、「何の役に立つのか(いや、役に立たないだろう)」という反語的なニュアンスを感じ取ったのかもしれない。
しかし、いずれにせよ、それは穿ちすぎだと思うし、まさしく無駄な消耗だ。
ニュースは何も知らない人に対して物事を伝えるものだ。
NHKの記者をしている友人に話を聞いたことがあるが、彼らは「中学生が理解できる内容の原稿」を基準にして記事を作成しているという。
一般的な中学生は科学の知識をほとんど持たないから、
そうした人々に、その研究が何の役に立つのか、あるいは立たないのかを伝えることは意味がある。
少なくとも、何の研究なのかが全く分からないままでいるよりは間違いなく良いことだ。
仮に、「何の役に立つのか」と質問した結果、その研究が特に役に立たないものだというコメントが返ってきたとしても、それは意味がある。
その研究が何の役にも立たないという知識が増えるだけでも収穫だし、
何の役にも立たないことを研究してもいいのだということを知ることができるのは有益なことだからだ。
「何の役に立つのか」という質問をしなかった結果、
もし、ある若者が「自分にはわからないが、きっとこれは何かの役に立つのだろう」とあやふやな理解のまま成長した結果、
「役に立たないものは研究してはいけない」と考えるようになったとすれば、それは損失にほかならない。
役に立たないものは研究してはいけないのではないし、役に立たない研究を馬鹿にしているのでもない。
単純に、何の役に立つのかを知りたいし、確認したいだけだ。
それにいちいち目くじらを立て、何も得ずにただ憤懣だけを覚えるのであれば、
やはりそれは無駄な消耗以外の何物でもないだろう。
【今日のまとめ】
このエントリは何の役に立つのか。というわけで。
- 2016/10/10(月) 21:47:32|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0