「伏線を投げっぱなし」であることは、たいてい批判の的になる。
それは映画でもテレビドラマでも小説でも漫画でも、物語全般において言えることで、
いかにもそれらしい描写を序盤に示しておきながら、結局それが解明されたり、重要なキーになってこないと、
「あれは何のための描写だったのだ」ということになり、叩かれる。
もちろん、拾われて初めてそれが伏線となると考えれば、
拾われなかった「それらしい描写」はそもそも伏線ではなかったということになるが、
どう考えてもこれは伏線として描いたものだろうというものが拾われないことは往々にしてあるものだ。
だが、オレは割と、そういう「伏線を投げっぱなし」な物語が好きだ。
そこにはっきりとした理由はなく、何となく好きなのだが、
無理やり理由を探すとすれば、それはリアルだからだと思う。
当然ながら、現実の世界には「伏線」などない。
それが事後的に何かしらの出来事とつながれば、それがまるで伏線のようだったということはあり得るが、
あらかじめ意味ありげな行動をして、それが後で確実に意味をなすことは不可能だ。
現実は物語ではないので、思った通りに事象をコントロールできないからだ。
逆に言うと、物語なのに伏線めいた描写が結局拾われないことは、リアルさを生み出すことになる。
もちろん、「物語は現実とは別物なのだから、物語である以上伏線は拾うべきだ」という考え方もあるだろうし、
それを否定するつもりはない。
だが、現に伏線を拾わない物語が世に溢れていて、またそうした物語を生み出す作家がある程度の評価を得ているということは、
「伏線を拾わないこと」は、リアルさを生み出すための一つの技法として定着していると考える方が自然だとオレは思う。
【今日のまとめ】
決して某魔女漫画の話ではない。というわけで。
- 2016/05/24(火) 20:49:01|
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