オレは7年半ほど前にレーシックの手術を受けたが、それまではずっと眼鏡やコンタクトレンズを使っていた。
裸眼の視力はそれこそ両目とも0.01ほどしかなく、眼鏡がないと何も見えなかったので、
勉強や試験の時だけではなく、日常的に眼鏡を掛けていないと生活に困っていた。
今では裸眼の視力が1.0以上あるので、度入りの眼鏡を使うことはないが、
それでもPC用眼鏡は毎日使っている。
残念ながら、「使えばまったく疲れない」とまではいかないが、それでもやはり疲労度はかなり違う。
このブログやメールマガジンを書く時には欠かせない。
また、オレは眩しいのが苦手なので、自動車の運転などの際はサングラスが欠かせない。
免許を取った時には既にレーシックを受けて視力が回復していたが、
もし眼鏡が必要なままだったら、色付きの度入り眼鏡を作らないといけなかったかもしれない。
結局、今でもオレは眼鏡を使っているということなのだが、以前のように常に掛けていることはなくなった。
そうなって初めて分かったのが、眼鏡をなくす人の気持ちだ。
視力が悪かった頃は、眼鏡を外すことがまずないので、なくすことはあり得なかった。
仮に外したとしても、眼鏡は生命線であり、もし無くせば、大袈裟に言えば命に関わるので、財布以上に大事に保管していた。
だが、いまは眼鏡がなくても見えるので、外した眼鏡に以前ほどの注意を払わなくなった。
眼鏡が、必要不可欠なものから、あれば便利だが、なくても絶体絶命にはならない程度のポジションに変わってしまったのだ。
実際、昨年の秋にレンタカーで京都に行った際、
オレはそこそこ気に入っていたレイバンのサングラスを、ケースごとなくしてしまった。
何となく心当たりはあり、おそらくパーキングエリアのトイレに置いてきてしまったのだ。
降りたパーキングエリアに逐一電話をするのも面倒で(そもそも確信もない)、
また、調べたところ、パーキングエリアの遺失物はそのエリアの最寄りの警察署に届くらしいので、
関西まで取りに行く交通費で新しいサングラスを買えてしまうため、そのまま諦めた。
結局、またなくすリスクを考慮して1万円程度のサングラスを新しく買い、いまはそれで済ませている。
昔のオレには、眼鏡をなくすということは信じられないことで、なくす人の気持ちが全く理解できなかった。
だが、今は実際になくす側にまで来てしまったのだから、人生どうなるかわからない。
【今日のまとめ】
流石に踏み潰しはしない(と書こうと思ったが、実は経験がある)。というわけで。
- 2016/04/27(水) 00:01:33|
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