「いじめは構造上の問題なので、無くなることはない」というのがオレの考えで、今もってそれは変わらない。
そのことについてはこれまで何度も書いてきたので、あらためて触れることはない。
いじめについての主張で、
「『いじめ』という言葉を使うのはよくない。暴行や傷害というれっきとした犯罪だ」というものをよく目にする。
その主張は、ある点においてはその通りだと思う。
殴る蹴るという行為は、ほとんどの場合犯罪だ。
それを「いじめ」という単語でまとめることは、発生した事実を矮小化する。
そのことは、被害者の救済の機会を奪うだけでなく、加害者が自らの行為を犯罪だと認識する機会、
ひいては反省や更生の機会までもを奪ってしまうことにつながる。
それは、誰一人得をしない。
しかし、その主張が行き過ぎると、
「犯罪にならない嫌がらせは、『いじめ』には含まれない」という危険な理解を導く。
たとえば、クラス全体からの無視や、必要な情報を伝えないなどの陰湿な嫌がらせは、
人によっては、殴られたり蹴られる以上のダメージを受ける行為だ。
だが、それは刑事法上の犯罪行為ではない。
「いじめはれっきとした犯罪だ」というロジックを突き詰めたとき、それらの行為は「いじめではない」という結果になってしまう。
そうではなく、「いじめの中には犯罪に当たるような残酷なものもある」という理解に立ったとしても、
「それらの行為は犯罪ではないから、殴る蹴るのいじめに比べて軽いものだ」と扱われてしまうだろう。
オレは、犯罪に当たる行為であっても、それがいじめとして行われた以上、それはやはりいじめだと思う。
単にそれが「いじめであって犯罪でもある」というだけの話だ。
「それが犯罪であるか否か」は社会全体の問題で、「それがいじめであるか否か」はコミュニティ内の問題だ。
レイヤーが異なる問題だから、いじめであることと犯罪であることは何ら矛盾しない。
「いじめを無くすことは不可能なので、不可避的に発生するいじめのレベルを徹底的に下げる努力をするべきだ」というのが、端的なオレの主張だ。
その目標を達成する上で、「いじめではなく犯罪だ」という主張は、取り立てて意義を感じない。
【今日のまとめ】
学校で被害届の出し方を教えるのは面白いと思う。というわけで。
- 2016/03/12(土) 20:50:21|
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