学校や仕事、待ち合わせに遅刻した人がよく口にするのが、
「電車が遅れたので遅刻した」という言葉だ。
「電車が遅れたせいで遅刻した」という人もいる。
そうした人は、たいてい、「だから仕方ない」とか、「自分は悪くない」というニュアンスを交えて上記の言葉を使う。
たとえ申し訳なさそうにしていても、「それでも不可抗力だから」という含みは常に垣間見える。
だが、そうした人は、「電車が遅れた」から、「遅刻した」のではない。
遅れている、あるいは遅れるリスクのある電車を、数ある交通手段の中から自ら選び、その結果遅刻したのだ。
しかし、「電車が遅れたので遅刻した」という人は、このように、「自らが電車で行くことを選択した」という意識が低い。
学校や会社は別に「電車で来い」とは言っていないし、電車で通勤・通学をしなければいけないという法的義務もない。
タクシーや徒歩で行ったり、あらかじめ近くに宿を取ったり住んでおくことも可能である中、
電車で行くことを選んだのは他でもない自分なのだが、そのことに気付いていないのだ。
オレはそれが怖い。
そうした人間は、物事を他人のせいにすることに完全に慣れきっている。
発生した結果が自分の選択の結果だということを疑わずに、
電車や天候などの身近な対象に責任を押し付け、それで自己を正当化する。
きっと、そうした人間は、オレのこのような指摘に対しても、
「ブラックだ」とか、「みんながそんなに強いわけではない」などと批判し、自己正当化を図るのだろう。
そんなことをしている人間が、自己が淘汰される側であることに気付くのは、いささか難しいかもしれない。
【今日のまとめ】
結局同じ結論になる。というわけで。
- 2016/02/05(金) 20:00:00|
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