ある芸人が逮捕されたというニュースを見たのだが、
その芸人に対して「許せない」という感情を抱く一般人がいるらしい。
こういう反応をする人を見るのは今回に限ったことではなく、
他の誰かが逮捕されたり起訴されたりしたというニュースでも同様だ。
だが、気持ち悪いとかみっともないという反応ならともかく、「許せない」という感情が湧くというのは変だとオレは思う。
今回の芸人の件でいえば、彼に対して「許せない」という感情を抱けるのは、
普通なら、被害者やその家族、学校の関係者、彼の相方や事務所、仲間の芸人くらいのものだろう。
それ以外の人間は、彼が犯した犯罪によって何かの被害を受けたという関係にないのだから、
そもそも許す、許さないという立場にない。
何もされていないのに、何を許さないのだろうか。
「期待を裏切られた」と言うのかもしれないが、期待というのは自分が一方的にするもので、
期待された相手が何をしようと、その相手に責任はない。
それは勝手で無駄な消耗であって、オレたちが生き残るために最も避けるべきことだ。
こういう時、「そうは言っても、社会的感情が許さない」と言う人が出てくる。
だが、「社会」は生き物ではないのだから、
たとえそれを構成する一人一人に感情があるとしても、社会が総体として抱く感情などありえない。
社会的感情が許さないのではなく、あくまでもそのように言う人が個人として許していないだけだ。
ただ、「わたしは許さない」というのでは訴求力に欠けるから、その主体を「社会」だということにして権威付けを図ろうとする。
しかし、そんな言葉に騙されるのは弱者だけで、
そんな弱者にフォーカスしている人間も、同じ弱者としてすぐに淘汰される。
先日、「日本のこころを大切にする党」という政党が誕生したというニュースを目にした。
だが、社会に感情がないのと同じで、「日本」という無生物に「こころ」など存在しない。
そんな党の党員が強者であるはずはなく、そこに票を投じる強者などいない。
【今日のまとめ】
なぜそこまで消耗したがるのか。というわけで。
- 2015/12/28(月) 23:14:46|
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