「東京オリンピックを開催するのに必要な予算が当初の想定を大幅に上回った」というニュースを見た。
このことから分かる客観的事実は、
「オリンピックのような大規模な工事や宣伝を伴う行事は、予算を事前に確定させることがきわめて難しい」ということに尽きるが、
どうやらその事実を理解できている人間はそう多くはないようだ。
「オリンピックなんてやめてしまえ」という声も聞かれる。
そもそも戦争などの理由以外で一度決定した大会を「やめる」ということができるかどうかはさておき、
「やめる」という選択は、はたして最善だろうか。
大会の実施に想定をはるかに上回る巨額を費やすことが判明し、またエンブレムや競技場に関する不祥事も相次いだ。
それらの事態についての世論の紛糾を鑑みれば、
東京オリンピックの後、日本が再びオリンピックの開催候補地として立候補することは当分の間難しいだろう。
それこそ、100年単位の時間をかけなければ「もう一度日本でオリンピックを」などという世論は形成されないはずだ。
それは、いま仮にオリンピックの中止を国内で決定しそれが実現しようと、そのまま大会が実施されようと、変わらない。
それならば、吹っ切れて、金に糸目を付けずにポジティブに実施してしまう方がはるかに有益だとオレは思う。
公的資金が注入されるといっても、国民の財布から直接金が抜き取られるわけではない。
だが、そう素直に思える人間は少ない。
オレは、日本人はまだ自国でオリンピックやワールドカップを開催できるだけの頭の良さはないと思っている。
1964年の東京オリンピックの時は、戦争からの復興、そして高度経済成長という熱さがあったから乗り切れた。
復興や経済成長という目的の下で、ある程度一丸となることができたからだ。
しかし、今の日本人には、「やると決まった以上はみんなで協力する」という素地がそもそも存在しない。
隣の家庭との間には経済格差が確実に存在する。
だが、その格差を知るだけのコミュニケーションを隣の家庭と取ることはまずない。
そして、あれほど甚大な震災でさえ、
今の日本人にとっては、一丸となれるだけのモチベーションをもたらす「復興」のきっかけにはなりえなかった。
これを解決するには、「こうすればいい」「こう考えたらどうだろうか」という具体的な提案では不十分で、
やはり100年単位の時間をかけた教育が必要とされる。
その頭の良さがない以上、オレたちは足りない頭を金で何とかするしかないのだが、
前述のように、金を使うと批判が噴出する。
この矛盾はダークサイドでも何でもなく、いまのこの国を象徴するものだ。
【今日のまとめ】
開会式がすべらないことへの祈りだけは一丸。というわけで。
- 2015/12/20(日) 22:52:35|
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