最近、嘲笑的なニュアンスを込めて「あたたかみ」という言葉が用いられるようになった。
「音源をダウンロードするよりも、CDで買う方があたたかみがある」だとか、
「電子書籍よりも紙の本の方があたたかみがある」だとか、
そういった発言を引き合いに出して、たいていはそうした発言に懐疑的なコメントが寄せられる。
オレは音源をダウンロードすることもあればCDを買うこともあるし、
1巻から3巻まで電子書籍で買った本の4巻をKindleで買うこともあれば、その逆もある。
どちらがより「あたたかみ」を感じるということはないし、そもそも音楽や本に「あたたかみ」は求めていない。
しかし、オレがどう感じるかはどうでもいい。
オレがここで言いたいのは、その「あたたかみ」でしか生き抜くことができなくなる時代が訪れる、ということだ。
おそらく、この「あたたかみ」という言葉は、「人の手が入った、アナログな、物質的なもの」について用いられている。
データでなく物質で保有する満足感であったり、大量生産でなく手作りで作られたものに対する愛着のような感情を表すのだろう。
他方で、その「あたたかみ」は、得体が知れない、不明瞭な感覚でもある。
現在では、データを作るにも人間の作業が必要だし、大量生産においても人間が関わっている。
その根本には人間の仕事があるという意味においては、結局すべてのものに人の手が入っているとも言える。
そうすると、「あたたかみ」には、結局「各々がそれに『あたたかみ』を感じるかどうか」という線引きが必要となるので、
それは曖昧なものとならざるを得ない。
だから、「あたたかみ」はその曖昧さを指摘されて嘲笑の対象となるし、その指摘は妥当でもある。
しかし、将来はどうだろうか。
20年後には世界中のほとんどの仕事がAIに置き換わる、という予測がある。
そして、本当に20年であるかはさておき、その予測はほとんど真実だろう。
そのような状況になったとき、人間がAIに対抗して食いつなぐには、「あたたかみ」しかない。
AIが正確である限り、人間がAIに勝っている部分はそこだけだからだ。
音楽や本といった創作や芸術は、その性質上、AIに取って代わられることはしばらくないだろう。
しかし、一般的な肉体労働、知的労働は、AIに置き換わることに何の不都合もない。
それどころか、その精度が高いなら、人間からミスを起こさないAIに取って代わる方がむしろ仕事の質も高まる。
それでも生きていくために人間がAIに肉薄するには、「あたたかみ」の部分で勝負するしかない。
創作や芸術で食べていける人間は、そうはいないからだ。
たとえば、コンビニエンスストアが無人化し、接客や清掃、防犯まで全てAI化することが可能になったとする。
そこでAIに勝てる人間は、「AI化によって得られるメリットを犠牲にしてもなお、彼や彼女に働いてほしい」と思われる人間だけだ。
むろんそのような人間に要求されるものは「あたたかみ」だが、
そのレベルは現在の「あたたかみ」のような曖昧なものではなく、AIが持ち得ず、
かつAIの正確さや速度とを犠牲にしても納得がいくレベルのものだ。
そんな「あたたかみ」を持っている人間はそうはいないだろうが、
そのレベルに達した人間だけが、AIを蹴落として就労し、生き残ることができる。
その事実を直視し、今から準備を開始しない人間は確実に淘汰されることになるが、
準備を開始できている人間は、オレにはそう多くはないように思える。
【今日のまとめ】
ラーメン屋もAI化したら怖い。というわけで。
- 2015/12/17(木) 22:22:26|
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