「◯◯という言葉が嫌いだ」という発言を、よく耳にする。
その◯◯は、差別的な単語であったり、流行り言葉であったり、いわゆる「誤用」であったり、さまざまだ。
しかし、それをいちいち「嫌いだ」と言って苛立つことには何の意味もない。
その言葉は現に存在しているのだから、
一個人が「嫌いだ」と発言したところで、その言葉が世界から消えてなくなるわけではない。
そうであれば、「嫌いだ」とわざわざ発言して苛立ち、消耗することには何の意味もない。
単に、その言葉を自分では使わないようにするか、そうした言葉を使う人間と距離を置けばいいだけの話だ。
もちろん、これは言葉だけに限った話ではない。
オレは、わざわざ何かが「嫌いだ」などと思うことはない。
苛立てば消耗するし、それが良い影響を及ぼすことは少ない。
だから、これは好きではなさそうだと思ったものや人からは、オレはあらかじめ距離を取る。
それは悪いことでも何でもないのだが、
この社会では、「嫌なものを避けて生きる」ということが、どこかネガティブな意味合いを持つ。
だが、本当は、義務や仕事でない限り、嫌いなものと接する必要はない。
それに、距離の取り方が上手い人間は、そもそも義務や仕事においても、嫌いなものと接する機会は少ないものだ。
しかし、その事実を理解する者は少ない。
蓄積されたノウハウがあるにもかかわらず、「苦労」という消耗を先人と同じだけ経なければ、
地位や給料が上がらないという会社は、相変わらず多いようだ。
今後、たとえすべてが上手く行っているように思える人間ですら、無事に生き延びられるかどうかわからない世の中が訪れる。
それはつまり、強い者だけが生き残るということだ。
当然、弱い人間から順番に淘汰される。
消耗は、強さを減退させる。
日々の無駄な消耗が多ければ多いほど、その人間は次第に弱くなり、淘汰の順番は早まる。
少なくとも、「◯◯という言葉が嫌いだ」というレベルで自分から消耗している人間は、そう長く生き残れない。
それを知らないのか、それとも知りながら諦めているのかわからないが、
そうした消耗をやめようとしない人間は相変わらず多い。
【今日のまとめ】
人間強度がなんとやら。
というわけで。
- 2015/12/10(木) 21:01:12|
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