最近、小説や本の読み方が少し変わってきた。
漫然と内容を拾うだけでなく、「新たな文体を獲得する」という明確な目的を持って読むようになった。
これまではそのような必要はなかった。
オレの考えていることは、オレが既に持っている文体だけで表現することができると思っていたからだ。
しかし、半年近く前に、ある賞に応募するために初めて小説を書いた。
そこで、既に持っている文体だけでものを書くことに対する限界を感じた。
このブログのような日記は、オレの語り口で自由に書くことができるから、それほど多くの文体を必要としない。
しかし、小説ではそうはいかない。
自分の文体だけでは、自分と性質の異なった人物を表現することは難しいのだ。
もちろん、その難しさは、人物描写だけにとどまらない。
初めて小説を書いたのだから当然ではあるが、オレは、そのことに初めて気が付いた。
応募した作品は、その点があまりに不十分だった。
読んでくれた数人の知人によれば、それが「小説ではない」ということはなかったようだが、やはり悔いは残る。
それ以降、オレは「文体を獲得する」というテーマを持って読書をするようになった。
話している人物の表情やそぶりで「空気」が分かる対面の会話や映像作品と違い、
文章においては、その「空気」を作り出せるのは文体だけだ。
そして、その「空気」を作り出すという意味においては、文体が重要なのは小説に限られないということにも気が付いた。
文体というのは話し方のようなもので、それを複数持っていることは、
「それができると役に立つ」というレベルのものではなく、ものを書く上で必要不可欠なものだった。
それにやっと気が付き、貪るように文体を獲得するようになった。
その作業は楽しいが、当然苦しみもある。
その苦しみの内容は詳しくは書かないが、いわばこれまでの自分を否定しかねないものも、そこには当然含まれる。
文体を獲得する作業は終わることがない、いわばライフワークだ。
だが、既にその成果はオレが書く文章に現れつつある。
それが読み手に伝わっているかは分からないが、
この作業を始めてから、わずかだがこのブログのアクセス数は増えた。
【今日のまとめ】
擬古文などにはまだ手を出していない。というわけで。
- 2015/12/09(水) 21:03:39|
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