オレは誰かが自殺するたび、怒りに似た感情がこみ上げる。
それはニュースで見た他人や芸能人の自殺に関してだけではなく、知人に対しても同じだ。
数年前に友人が自殺したことがあった。
悲しみももちろん大きかったが、その時でさえ、やはり怒りが湧いていた。
もちろん、自殺した人間に同情はする。
何か理由があって自殺した人間に対して、「大変だったな」と思ったり、不憫に思うことはある。
何とかならなかったのだろうかと自分を責める気持ちにもなる。
だがそれは、同情に値する動機に基づいた殺人が決して善たりえないのと同じで、
あくまで同情や情状酌量の要素にすぎない。
どこまで行っても、自殺はあくまで悪であって許されないし、オレは許さない。
人を殺すことは道徳的にも法的にも悪だ。
それは一部の宗教的な場合を除いて、
社会的にほぼ完全に共有された価値観で、今後も変わることはまずないだろう。
自殺はその対象が他人でなく自身であるというだけで、殺人と変わりはなく、悪だ。
法で自殺それ自体は罰せられないが、それは自殺が必然的に実行行為者の死を伴い、
死んだ人間を罰する意味がないからだ。
自殺が悪ではないからではない。
実際に、自殺関与罪は犯罪として刑法に規定されている。
追い詰められて他人を殺したり、責任を取って他人を殺すことが許されないのと同じで
追い詰められて自殺することも、責任を取って自殺することも許されない。
その人間が死んだ所で何かの責任が果たされるわけではないからだ。
武士の切腹や軍人の自決は実際にそうした社会的意義があって、それで責任が果たされることもあった。
だから、それらは一概に悪とは言えない。
しかし、たとえ本人がどんな意図で死のうと、現代の一般人の自殺にそうした意味合いはない。
道徳的な意味でも悪であるし、周囲の人間に突然の葬儀や相続の開始、物件などの清算の手間をかけさせるばかりか、
鉄道で自殺することで全く自身に関係のない第三者に被害を加える人間もいる。
繰り返すように、同情はできる。だが、許すべき行為ではない。
しかし、メディアの自殺に関する報道は、
自殺を、殺人とは異なり、善とは言えないまでも、明確に悪ではないことのように扱っている。
少なくとも、自殺した人物について、殺人事件の報道のように、
こいつはこんなに凶悪な人間だった、などと批判的には報道しないし、むしろ同情的でさえある。
いじめられて中学生が自殺した、というニュースを幼少期に見た人間の心の奥底では、
「いじめられたら自殺する選択肢がある」という価値観が、選択肢の一つとして形成される。
実際に自殺をしないまでも、「自殺するという考えもあるんだな」と考える契機にはなる。
それは間違っているとオレは思う。
勘違いしないで欲しいが、オレは「いじめられて自殺した中学生が悪だ」と報道しろと言っているわけではない。
そんな報道はすべきではない。
ただ単に、「自殺を報道しなければいい」というそれだけのことなのだが、
メディアがそうした方向に舵を取ることはないだろう。
【今日のまとめ】
誕生日プレゼントに「完全自殺マニュアル」をくれたオレの友人は凄い。というわけで。
- 2015/10/23(金) 20:00:00|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0