オレは人に会う時、その相手の情報を徹底的に調べてから会うようにしている。
それは初対面の相手だけでなく、よく会う友人に対してもそうだ。
少なくともその相手のTwitterやFacebookやブログを数週間分ほど遡り、
その相手がどんなことをしていたか、どんな風に思ったのか、という情報をあらかじめ仕入れておく。
その人が観た映画、聴いた音楽、読んだ本については、鑑賞することができなくてもあらすじだけはネットで押さえておくし
その人が自ら創作をしている人間であれば、その最近の作品は聴いたり読んだりしておく。
そのことによって、「調べれば分かること」についてわざわざ長話をして時間を浪費することがなくなり
調べても載っていないその人の情報について知ることが可能になる。
これを怠ると、せっかく色々な情報を教えてもらったと思ったのに、
いざ帰ってその人のSNSやブログを見たら、その日に話したことが過去にほとんど書いてあったということになりかねない。
それでは会った意味がないとオレは思うので、オレは嫌々ではなく、進んで、そして面白がってそういう事前調査をする。
だが、オレに会う相手はそうでないことが多い。
その結果、オレはその相手に対して、オレのブログやTwitterを見れば簡単に分かるようなことを話すだけで終わってしまう。
もっと話したいことはあったのに、前提を伝えただけで夜になってしまう。
いったいその相手はオレに何を求めていたのだろうと思う。
一緒に食事とどうでもいい会話をする相手が欲しいだけなら、それがオレである必要があるのだろうか。
そういう人間は、きっと調べるのが嫌いなのだ。
あるいは、それが調べれば簡単に分かることであっても、何でも「初耳」にしたいのかもしれない。
「初耳」の情報によって得られる興奮がやみつきになり、
その興奮を麻薬のように断続的に欲しがる結果、何でも「初耳」にしようとする。
たとえ、それが調べればすぐ分かることでも、あえて調べずに「初耳」にするのだ。
しかし、その「初耳」は、調べればすぐに分かる程度の安っぽいものでしかない。
そうした人間は、前提を知った状態で挑むことではじめて手に入る、より深い情報による感動に触れることはない。
「ネタバレ」を露骨に嫌う人間がいる。
関係者内での公開や試写の段階で得た情報を書いてしまうのは、それは書いた人間が明らかに悪いが、
もう一般公開されている作品についてですら、彼らはネタバレを嫌う。
それどころか、そうした情報を書いた人間を糾弾することもある。
「初耳」によって得られるインスタントな興奮を奪われたことに対する反射的な怒りがそうさせるのだろう。
また、「初耳」という形で作品に接しなければ、その作品を楽しめる自信がないのかもしれない。
ひとつの作品が受け手に与える情報は、そのあらすじや一部の場面を事前に知った程度では到底汚されるものではない。
「知りたくなかった」という気持ちは分からなくもないが、知ったからといってどうということはないのだ。
むしろ断片的な情報を知ったうえで作品と対峙することで得られる感動や興奮もあるのだが、
彼らがそれを知ることはないのだろう。
オレはそうした人間にまったく期待はしていないし、彼らもまたきっとオレの考えなど意に介さないだろう。
【今日のまとめ】
そういう意味で吉田豪には憧れる。というわけで。
- 2015/10/18(日) 20:49:34|
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