大阪の中学校で組体操のピラミッドが崩壊し怪我人が出たというニュースを先日目にした。
練習でも成功していなかったらしいものを本番でやるというのも驚きだが、
数年前にも別の学校でピラミッドによる怪我人が出たというニュースを一般人のオレでも覚えているのに
それを平気でやってしまう管理体制に驚いてしまう。
このニュースに対する反応として
「組体操そのものをやめるべきだ」とか、「組体操は旧時代的だ」などという批判をSNS等で目にしたが
それもそれで論点がずれている気がする。
問題なのは、あくまで、成功経験がなく怪我人が出る蓋然性の高いピラミッドがそのまま行われたことにあるのであって
少人数でのピラミッドや倒立、扇など、そうした型をやる分には問題はないはずだ。
それらの型には怪我の危険性はあっても蓋然性はないし
危険性だけでやめなければいけないのなら、球技や陸上などもやめなければいけないことになる。
まあ、この点に関しては色々な意見があるだろうし、オレはこの考えを押し付けるつもりはない。
この件に関する反応ということで思い出したが、
SNSで、よく「自分は体育でチームを組まされるのが苦痛だった」とか
「協調性を押し付ける教育は間違いだ」という意見を、さも自分が
「オレは集団に溶け込めないタイプの生徒の代弁者だ」というように書き込む人がいる。
そうした書き込みはよく拡散されているし、同意する人も多いということなのだろう。
また、これらの批判はよく「協調性を重視する教育は戦時教育の名残だ」などという主張と関連づけられて語られる。
それが真実かどうかは、オレにとってはどうでもいいことだが。
しかし、オレは、やはり体育でチーム制の競技をやることは必要だと思うし
協調性を重視した教育は小中学校では不可欠であると思う。
勘違いしないで欲しいが、オレは別に、チームに溶け込めない人間や、協調性がない人間は駄目だと言っているわけではない。
オレの考えはむしろ逆だ。
協調性は万人に要求されるものではない。
溶け込めない人間は、周囲に溶け込まなくてもいい仕事や趣味を見つければいい。
協調性を必要としない職業はいくらでもあるし
むしろ協調性のない人間の方が向いている職業さえある。
そのためには、自分が「わたしは集団に溶け込むのが苦手な人間なんだ、協調性がないんだ」ということを
できるだけ幼い段階で自覚する必要がある。
体育のチーム競技や協調性重視の教育は、そのために欠かせない。
義務教育という形でそれを強制することが、最も手っ取り早く有効な手段だ。
強制させることで、それを克服する努力もできる。
それでも駄目なら諦めればいい。
別に、駄目だったからといって罰せられるわけでもないし、溶け込めないことでいじめられるかどうかはそれとは別の問題だ。
中学を出てしまえば、高校に行かない場合はもう社会人だ。
社会に出た後でそんな教育をしてくれる人間はどこにもいない。
もし、小中学校の段階でチーム競技や協調性重視の教育を廃止したり
「やりたくない生徒はやらなくてもいい」という任意性にすれば、
一部の生徒は、自分が協調性のない人間なのかどうかをはっきりと確認できないまま、社会に放たれることになる。
それはその生徒たちにとって、少なくともプラスにはなり得ない。
その意味で、そうした教育はやはり必要なのだ。
オレは体育が苦手で成績は悪かったが、決して嫌いではなかった。
チーム競技をやる中で自分の協調性のレベルも確認できたと思っている。
きっとオレは多数派だったのだろうが、それも「オレは多数派なんだ」と確認できる好機だったということだ。
【今日のまとめ】
膝の痛さが懐かしい。というわけで。
- 2015/10/07(水) 20:12:52|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0