オレは頭が悪いし、文章が下手だ。
「そんなことない」と言ってくれる人がいるかもしれないが、これは客観的事実だ。
オレは国語があまり得意ではなかった。
古文や漢文は好きだし得意だったが、現代文の成績は並程度だった。
慶應義塾大学法学部卒、と言えば聞こえはいいが、
オレの出たその学部は、英語と日本史の、すべてマークシート回答の試験だけで入ることができた。
オレは、流行りのメディアのライターが書くような、
小難しい批評やレビューの内容を一読して理解することができない。
理解することができないのだから、当然そうした類の文章を真似ることもできない。
そうした批評やレビューが人気を博しているのは、当然その内容が大衆に理解されているからだ。
それを理解できないオレは、大衆よりも頭が悪いということになる。
ライターが悪いのではなく、内容を理解できないオレが悪いのだ。
そして、オレは文章が下手だ。
以前よりはだいぶ上手く書けるようになったとは思うが、
それでもまだ「下手」の領域を脱したとは到底思えない程度の、幼稚な文章しか書くことができない。
周囲の人間、それもそれが本職のライターであるならまだ諦めがつくが
たまに思い付いた時にだけブログを更新するような人間が
オレの何百倍も上手く、そして読ませる文章を書いているのを見ると、ときおり本気で死にたくなる。
勘違いしないで欲しいが、オレは別に自分を卑下している訳ではないし
自分の文章が他人に読ませられるレベルに達していないと思いながら毎日ブログを書いている訳でもない。
オレは日々、少しでも上手く、そして伝わる文章を書けるように努力している。
その努力を一日たりとも止めたこともない。
ただ、「客観的に見てオレの文章は下手だ」と言っているだけだ。
先に書いたように、日々「上手くなりたい」という意識を持って毎日のブログや毎月のメールマガジンを書くことで
少しずつではあるが自分の文章が上手くなっていることは、オレ自身自覚している。
ただ、その速度は本当に遅いし
進歩どころか、一時期よりも退化したのではないかと感じることさえある。
そのような遅さでは、文章がいくら上手くなっても
相対的に見て、「文章が上手い人間と比べてオレの文章が下手である」という状況に変化はない。
冒頭で「客観的事実」と言ったのはそのことだ。
しかし、オレは書くことが好きだ。
オレは、何かを書くことでしか自己実現を図ることができない。
オレがもし書くことを止めるなら、それは死ぬ時だとさえ思っている。
でもオレは文章が下手だ。
それならどうすればいいか。
答えは分かっている。
下手であることが問題にならない文章を書けばいい。
「いい」というか、それ以外に道はない。
それは結局、「分かりやすい文章を書く」ということに尽きる。
オレは幸いにも頭が悪い。
だから、オレが理解できない小難しい表現や単語がオレの文章に現れることはない。
自分が理解できないもの、知らないものを文章にすることはできないし、書き手として絶対にしてはいけないことだ。
それは手懐けられない大型犬を無理矢理飼育しているのと同じで、きわめて無責任でエゴイスティックな行為だ。
小難しい表現や単語の現れない文章に要求される文章力は、
それが頻繁に現れる文章に要求されるそれと比べて、低い。
もちろん、単純ゆえの難しさはあるが、最低ラインは確実に低い。
だから、オレにも何とか書ける。
もしオレが「頭が良く文章が下手な人間」だったら、今よりももっと奇怪な、まるで暗号のような文章を書いていただろう。
文章が下手であるなら、頭が悪いに越したことはないのだ。
小難しい表現や単語を扱えないというのは、語彙が少ないということでもある。
それはハンデだが、他方で、「単純で分かりやすい文章を書ける」という武器にもなりうる。
下手は下手なりに立ち回るしかないが、それが敗北だとはオレは思わない。
与えられた道具がいかに粗悪なものであっても、それを極限まで使いこなすことで手にできる勝利もあると思っている。
【今日のまとめ】
でもやっぱり小難しい単語には少し憧れる。というわけで。
- 2015/10/02(金) 20:25:29|
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氏の精神についてあまり詳しくないですが、少し光栄です。
- 2015/10/04(日) 17:15:10 |
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- キムラヤスヒロ(鳩) #-
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