「正しい日本語」という表現は眉唾ものだと思う。
まず、正誤の基準があいまいだ。
文科省や国の委員会のガイドラインに沿っているかで決めるのか、
あるいは広辞苑や日国に載っているかで決めるのか。
文科省が認めていなくても、広辞苑に載っていれば、それは「正しい」日本語なのか。
それに、もし広辞苑に載っている言い回しが「正しい」のだとすれば
過去には載っていなくて、最近になって掲載された言い回しは「正しい日本語」ということでいいのだろうか。
掲載される前からその言い回しを使っていた映像や文章の扱いはどうなるのか。
では、この場合は「正しいと認められた」ということでいいとしても、
過去には載っていたのに新たな版で削除された言い回しは、正しくない、すなわち誤った日本語なのだろうか。
そうだとすれば、「過去には正しい日本語だったが、いまは誤った日本語である」という状態が存在することにならないだろうか。
こういう風に考えてくると、「正しい日本語」という概念を(むろん、ニュアンスで言いたいことは分かるにしても)
あまり公の場で用いて、その場をかき回すのは良いことだとは思えない。
だから、「眉唾もの」だと思う。
しかし、日本語(もっともこれは日本語に限らずあらゆる言語がそうなのだが)は、
読み、書き、話すものである。
すなわち、五感で知覚するものであるから、
たとえそれが主観的なものであるにせよ、「美しい日本語」というものは確かに存在すると思う。
話していて、聞いていて美しいと感じる言い回しはあるし、
逆に聞いていて醜く感じる日本語もある。
それは必ずしも、その日本語が「正しい」かどうかとは一致しない。
たとえ最近になって現れた造語のような流行り言葉であっても、「美しい」と思える言い回しはあるだろうし
古くから存在する言い回しでも、醜く感じる場合もある。
でも、やはり「美しい」と感じる言い回しの多くは
比較的古くから存在する言い回しであることが多いように感じる。
それは慣れであるかもしれないし、新しいものを無意識に排斥したがる老獪な気持ちの現れであるかもしれない。
とはいえ、美しいか否かが主観的な判断である以上、それもある程度仕方ないのだろう。
自分は文章が下手くそであることを引け目に感じていて、
だからこそ、少しでもそれが改善されることを期待し、
こうしてブログを頻繁に書いたり、メールマガジンを毎月配信したりしている。
文章とはまた少し違うが、日本語の歌詞を乗せた音楽を作るのもその一環だ。
そこでは「正しい日本語」は必ずしも使っていない。
先に述べたように、まず僕自身が「正しい日本語」という表現について
その正体がつかめていないというのもあるし、
仮に広辞苑に載っている言い回しがそうなのだとすれば、明らかに載っていない言い回しも使っている。
だから、きっと読んでいて「こいつの日本語は間違っている」と感じる人もいることだろう。
でも、「美しい」日本語、少なくとも僕自身が「美しい」と思える日本語を使うようにはしている。
自分で美しいと思えない言葉で自分の気持ちを人に伝えるのは、受け手に失礼だと思うからだ。
繰り返すように、「美しい」か否かは主観だから、
自分が美しいと思ったところで、受け手がそれを美しいと思ってくれるとは限らない。
それどころか醜いと思うことさえあるだろう。
だが、それはそれでいい。
むしろ、そういった感覚が合致しない人とは付き合わない方がお互いのためにもなる。
だから、それでいいのだ。
同じようなことを以前にどこかで書いた気もするが、
ふと思い立ったので、このスタンスをあらためて表明しておく。
【今日のまとめ】
言葉ありき。
というわけで。
- 2014/12/08(月) 00:10:26|
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