先日、知人との会話がきっかけで、その知人にオレのエレキギターを貸すことになった。
明日貸すことになっているのだが、オレは、そのための使用貸借契約書を作った。
明日、ギターを引き渡すとともに、その知人に記名押印してもらうつもりだ。もちろん彼はそのことに同意している。
「友達との貸し借りで契約書を作るなんて、お前は相手を信用していないのか」と思う人がいるかもしれない。
しかし、オレは信用していない相手にギターを貸すことはないし、オレはその知人のことを信頼している。
そもそも、その相手を信頼しているかどうかと、契約書を作るかどうかはまったく関連がない。
オレはコンビニエンスストアやスーパーの店員をまったく信頼していないが(もっとも、疑ってもいないが)、
そこで物を買うたびに売買契約書を作成して記名押印させたりはしない。
日常の様々な行為は法的に見れば契約であることが多いが、この国ではそれがあまり意識されない。
買い物は当然に契約だし、電車に乗る行為も契約だ。
病気になって医者の診療を受けるのも契約だし、結婚も一種の契約だと言える。
それらは契約である以上、もしトラブルが起これば法的な問題になる。
だが、たいていの場合はそうしたトラブルが起きないために問題も起きず、
結果として、それらが契約だということが意識されない。
今回オレが契約書を作ったのは、その意識されないことが多いものをあえて意識するためだ。
契約書の有無は契約の成否に直接は関係なく、口約束でも契約は契約なのだが、
「契約書」という有形物の存在は、そこに記された契約の存在を強烈に意識させる。
また、契約書の形にすることで、双方が果たすべき義務の内容を互いに確認でき、誠実な対応を取ることが可能になる。
むろん、作る労力と契約不履行の際のリスクとの天秤にはなるが、
たいていの場合、契約書の作成は当事者双方にとってメリットになる。
相手も、「自分はここに書かれている以上の義務は負わない」と確認できるのだ。
だから、オレは、物の貸し借りくらいのことでも、基本的には契約書を作った方が良いと考えている。
しかし、先にも書いた通り、
この国では、「契約書なんて堅苦しいものを作るなんて、相手を信用していないんじゃないか」という価値観が蔓延している。
契約書で互いが負うべき責任の範囲が明確にならなければ、当然トラブルが生じやすくなる。
トラブルが生じれば法的な争いになるわけだが、
契約書が存在しないと、契約の存在の立証さえ難しくなり、結果としてトラブルは解決しにくくなる。
紙切れを数枚書いてサインをすれば良いだけの話なのだが、
それだけのことさえ、この国では煙たがられる。
それが良いことだとはオレは思わないが、そうした価値観が消え去ることはないだろう。
【今日のまとめ】
流石に実印までは使わない。というわけで。
- 2015/11/30(月) 22:34:47|
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