■死んだ猫をラジコンヘリに改造、オランダの芸術祭に出展
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE85402G20120605■この記事を見て割と素直に「うわー、リアル『スーホの白い馬』だな」とか
「かっこいいな、こういう弔いの形もあるのね」と思ったんだけど、
どうも周囲の反応を見ていると否定的な意見も結構あるらしい。
そちら側の意見を聞くと、まあ確かにそうだよなと思える部分もかなりあって、
どうも明確に「それは間違いだ!」というものでもないらしい。
無論、だからこそ議論になって揉めるわけなんだけれども。
結局(というまとめ方をすると一部の方からは叱られそうだが)、
「人や動物の生き死には自分だけで決められるものではない」
という前提がある程度あって、それを判断する上で
本人と周囲の者、どちらの意思に寄せた選択(線引き)をしていくかなんだろうな、と思う。
今回のような死後のパターンはもちろん、
たとえば障害があると分かった子供を産むか否かの選択などもそうだろうな。
それが人間か動物、畜生かどうかでもきっと変わってくる。
「俺はこうしたいんだ!だから死後はこうしてくれ」という主張も
場合によってはエゴや迷惑になるし、
かといって、周囲の者の意向に完全に拘束されて
自分の尊厳がないがしろにされる、というのもまた味気ない話で。
個々の置かれた環境や文脈(もちろん宗教観なども)、
その主張が公序良俗に照らしてどうか
(この「公序良俗」というのもまた相対的なのが難しいんだけど。
「え、これで傷つくの?」という人も出てきて、ここにもまた「線引き」の概念が登場する)などを衡量しつつ
できるだけ多くの、
特に当人及びその周辺の人間が納得できる答えを選んでいくしかないんだろう。
一度こういう選択に直面すると、どちらを選んでも必ず「反対派」から攻撃されることになるが
それは社会市民として受け入れなければならないルールだ。
■NHKのニュースなどで最近「自己決定権」の話題が多く取り上げられている。
数十年前(あるいは原始)なら「手の施しようがない」で終わらせられたものが、
技術の進歩によって、
かえって周囲の人間に負担を与える結果になっている気がするのはちょっと悲しい面がある。
最近は免許証の裏に臓器提供の意思表示欄ができていたりするけど、
やっぱりこういう「生前の意思表示」を
積極的にエビデンスとして残していった方がいいんだろうね、この時代。
むろんそれを家族が受け入れるか否かはまた別の問題であっていいと思うけど、
正しいかどうか、下手すれば存在したかどうかすら分からない「故人の意思」で
周囲の人間を振り回すのはあまりスマートなやり方ではない。
この辺は法哲学とも関わっているし、
一生をかけて考えていける、誤解を恐れずに言えば「面白い」分野だ。
- 2012/06/06(水) 20:05:56|
- 日記
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2