最近のSNSやEvernoteなどの台頭で、「とりあえず書く」という文化が根付きつつある。
手書きのメモよりも即時性が高いので、それまでメモを取るという行為に
馴染みがなかった層にも、思ったことをバンバン書いていくという習慣が
身についているのは良いこと。
でもちょっと気になるのは、いわゆる「鬱post」に始まる、
本人が忘れたいと思っているであろう事までが、そのバンバン書いていく行為に
内在化されてしまって、かえって不経済になっているんじゃないかという点。
本来メモ取り、文章化というのは、
「口で言っているだけでは忘れてしまうので、それを文字として残すことで
記憶に定着させる」
という行為だと思う。
これが間違っていないとすれば、いわゆる「鬱post」では、
「忘れたい、嫌だと思っていることを自分で忘れないようにする」
という積極的な努力をしてしまっていることになるのでは。
ならば、こういう場面では、多くの人に身に付きつつあるその喜ばしいソーシャルなメモ癖を
逆手に取り、
「口で言っているだけにすれば忘れてしまうのだから、それをあえて文字に残さないことで
記憶から消し去ってしまう」
というテクニックが使えるのではないだろうか、と思う。
自分に理解のある人間に直接会い、あるいは電話で、愚痴や泣き言を言う。
言葉は、良くも悪くも放てばすぐに消えてしまう。
その「良く」の部分を積極的に利用して、忘れたい出来事や思いはどんどん消していく。
おそらく昔から当然の摂理なんだろうけれど、前述したソーシャルなメモ癖の広まりで、
その摂理も忘れられがちになっているのでは、と思った次第。
中学生の頃に通っていた塾の、今でも一人の人間として尊敬している塾長が、
「愚痴はいくらでも言っていい。その当人の前で言うのでなければ。」
と言っていた意味が、今になって少しわかる気がする。
- 2011/07/27(水) 20:10:33|
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